笹原玉子『偶然、この官能的な』書肆侃侃房,2020
「少女」、「春」、「迷子」、「神」。それぞれの言葉は透きとおった、イノセントなイメージを持たせることのやさしいモチーフたち。この歌の場合はどことなく不穏な、そしてちょっと無気味な雰囲気が醸し出されています。
微かに笑う「少女」たちの間を、目には見えない「春」が右往左往している(?)のではなく、「少女」たちの「微笑のなか」に「春」が迷い込んでいるらしい。
「微笑」とあるので、聴覚が捉えられるものは実際には発声するか、しないかくらいのかすかなもの。ここではその行為の主体が「少女」ではなく「少女ら」であることで、まるで彼女たちの声ではなく、いくつもの表情がこだまするような感覚をおぼえます。
そして「少女」たちよりも、そのほほえみに迷い込んだ「春」のほうが、ずっと幼いように描かれている。この語り手は、わたしたちの身を委ねるほかない四季のそれとは、大きく異なる捉え方で世界を見ているようです。
意外にも季節は、わたしたちの感じるよりもずっとずっと脆く、それは思春期のにんげんの機微にいとも簡単に左右される。それを、見かねた「神」が一手に引き受ける。
また、この歌を57577で正しく区切ろうとすると、
少女らの/微笑のなかで/春は迷/子になつてゐる/ここからは神(の領分)
と、詠みすすめるにつれて大胆な破調と字余りになっていることがわかります。
語り手である〈私〉が誰であるかは明言されていません。けれど、この独特の韻律のために、一字空けからの「ここからは神の領分」が、かみさま自身の呟きのようにも見えるし、もしくは「ここからは神の領分」というほどの発言のゆるされる、どこか貴い存在を感じさせるのではないか、と思うのでした。