ねこじゃらしに光は重い 君といたすべての場面を再現できる

永田紅『日輪』(砂子屋書房、2000年)

 

ねこじゃらし、ねこじゃらしとふだんいうのはエノコログサのことで、犬の尾のようにくるんとまがって垂れている花穂に、ひかりのあたるのを想像する。あかるい姿である。

 

ねこじゃらしにはなにがふってもあたっても重いだろうが、それは〈ひかり〉であってもそうだという。おりおり川岸を歩いて印象的な歌集にあっては、読者のわたしにもごく見慣れた光景のようにおもわれてくる。ああたしかに、「ねこじゃらしに光は重い」。

 

一字あいたところで、「そのように」と、ひとつの具体をひきうけながら三句以降を読むことができるだろうし、あるいは、「そのように」わたしにとって「君」が、「君」といた日々が、ひとつひとつの場面が重くまつわるのだと読むこともできるだろう。ふたつの言い切りの形、「光は」の「は」、「すべて」が、ひるがえってあえかなるものをおもわせる。

 

ここで「再現」ということばは「あとがき」にもあって、だからどうこう言うのではないが、このとりのこされてしまった感じというのが、いっそう「再現できる」ということをおもわせるのかもしれない。ふたつの「再現」の語のちがいが、川岸のこちらとあちらのように遠い。

 

そういった全てのことを私はありありと憶えているのに、私自身やまわりの人たち、そして出来事が、再現されることはもうない。(「あとがき」より)

 

十年経って二十年経って、あの頃をおもいかえすとき、そこにふたたび浮かんでくるのは、人それぞれ、おもいのほか異なるのである。あれだけ一緒にいて、あれだけこころかよわせ、同じものを見て、同じように語っていたのに。たとえばわたしは、そのことにどこかほっとするようなところがあるのだが、それにしてもさびしいなあ、遠いなあ、とおもうのである。

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