君に逢ひにゆく傷つきに海よりの夕風はらむシャツを帆として

塚本邦雄『驟雨修辞學』

 

数年前、日本現代詩歌文学館で開催された塚本邦雄展を観に行きました。

大量の草稿ノートが惜しみなく展示されており、そのどれもが、おそろしく美しい筆跡であることにおののきました。

「草稿」というのは、もっと雑多な試し書きのようなものばかりだと思っていたので、そこに並んでいる歌のほとんどが、書き起こされた瞬間に〈塚本邦雄〉の作品として存在感を放っていることにしんそこ震えたのでした。

 

何周もしているうちに、わたしの大好きな歌を見つけました。きょう取り上げた歌です。けれど、草稿ノートには、

 

君に逢ひにゆく愛されに海よりの夕風はらむシャツを帆として

 

とあって、とても驚きました。この歌でとびきりに輝いているのは、三句目の「傷つきに」という表現だと思っていたから。

 

一読して意味の通る、塚本の作品にしては珍しいくらい意味のとりやすい歌です。

思いを寄せる「君」に、作中主体は「逢ひにゆく」。語り手ははじめ「愛され」るために、作中の主人公に行動させる。これはこれで、甘い愛恋の歌であります。

(かれがよく用いる「愛恋」というタームは、その読みのみならず、イメージにも「哀憐」を感じる。心の声で発話するとき、恋愛沙汰に限らないにんげんの愛や慈しみの感情の、悲しみも愚かさもほのかに背負うような。)

 

歌集におさめられる段階では、何のために会いに行くのか、という、一番大切なはずの部分が作り変えられている。

「シャツを帆として」は、文字通り「胸を膨らませる」様子とも重なりますが、「愛されに」ゆくはずの歩みが、むしろ「傷つ」くための行動へと書き換えられたその瞬間、「海よりの夕風」は追い風から、向かい風へと風向きを変えます。

 

「君」は相聞の相手とは限らない。わたしたちは誰かに「愛される」自由は持たないが(「愛する」自由や、「愛される」ことの可否を決める自由はあるが)、じぶんが「傷つく」自由は確かにある。

その「自由」に対するほんの少しのさびしみと清々しさは、どことなく舟旅のそれを彷彿とさせられます。

 

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