ほんとうの愛のことばをでたらめな花の言葉として贈るから

岡本真帆『水上バス浅草行き』(ナナロク社、2022年)

 

ふつう花言葉というと「熱愛」とか「ふたりだけの秘密」みたいに、名詞あるいは体言でおわるものが多いようにおもう。しかしなかには、「ほんとうの愛のことば」のようなものもある。

 

今の季節だと紫陽花は「ずっと好きでした」、向日葵は「はじめて会ったときから好きでした」、花水木は「ずっと一緒にいよう」、アガパンサスだと「だんだん好きになっていきました」、サルスベリは「また遊びに行こうね」、などなど。

 

どれも「でたらめ」で、いまおもいつきで書いたのだけれど(すみません)、この一首は「でたらめな花言葉」という一連にあって、だからこの「花の言葉」というのは、ひとつには花言葉のことだと読める。自分のことばとして言うべきところを、花言葉というていにして贈る。それは照れ隠しかもしれないし、さりげない気遣いかもしれない。気づかれたくない、というのもあるだろうか。

 

もうひとつ、人に人の言葉があるように、花にも花の言葉がある、ということをおもってみる。「花の言葉」を知らない(だろう)わたしは、だから「でたらめ」だけれど、人の言葉を、花の言葉にかえて、愛を伝える。ずっとずっとあとになって、あああれは「愛のことば」だったんだと気づくような、「ほんとうの愛」を込めて。

 

いずれにしても、「ほんとう」も「愛」も「ことば」も「花の言葉」も、ぜんぶ、曖昧なものである。「ほんとう」と「でたらめ」、「ことば」と「言葉」の対置はごく表面的なことで、ここでは「として」、贈る「から」にこそ、わたしの気持ちが乗っているようだ。いちばん言いたいひとだから言えない、大切だから言えないことばが、ここにたしかにある。

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