蕾だと思っていたらアブラムシ うた、脈、ことば、音素 ゆるして

兵庫ユカ『七月の心臓』BookPark,2006

(兵庫さんの歌集に関しては、平岡直子さんの2018/05/14付「日々のクオリア」に詳しく。)

 

「蕾だと思っていたらアブラムシ」……ぞわっとします。

知らぬ間に葉にわいていて、数も多くてとても小さな……集合体恐怖症ではなくとも、「だと思っていたら」というところ、ともすると触れていたかもしれない、という部分に、肝が冷えるような感じのする。

 

ぼんやりと見ていたものが視える・・・ようになるためは、少なからず対象に近づいて、ピントを合わせる、という動きが生まれます。

この歌の中では「アブラムシ」が「蕾」と見まごうほどの大きさが示されてもいて、これは語り手の視線が植物の先端にクローズアップするため、と素直に読むこともできそうです。

 

そうして続けられる下の句、「うた、脈、ことば、音素」、一字空けの「ゆるして」。羅列されたそのどれもが、何かしらの〈響き〉をともなうもの。

けれど語り手は、明確なことは何も指示しない。ということは、何も喩えていないようでもあり、すべてが喩えられているようでもある。

すごく大きな記号が並んでいて、どれも語り手のうちでは切実に何かを示している、ようにみえてしまう。その視点は、まるでかみさまのよう。

 

つまり、この作中主体はずっと何かの植物を見ているだけのはずなのに、語り手のかたる上の句の「クローズアップ」の視線と、下の句の(途中までの)視点はかなり次元が異なるように思えるのです。

(途中までの)と記したのは、「アブラムシ」をいう語り手と、「うた、脈、ことば、音素」をいう語り手の次元が異なることは説明できるのですが、最後の「ゆるして」だけがどこに属しているのかがわからないから。

そして何かにゆるしを乞うているものの、最後まで、その罪の意識のみなもとになっているものは何かもわからない。

 

怖い歌だ。何も見えていなかった、ということに気がつくとき、ぞくっとすることがありますが、

それは無智を知ることの恥ずかしさに身のすくむようなことを言っているのではなく、その視野の埒外にある/あった何かの存在が、おのれの域内へとじわじわと滲みだしてくるような。

ホラー映画なんかでよく見かける、身に迫るその「何か」に対して、発することのできる言葉といえば、そういえば「ごめんなさい」とか「ゆるして」といった贖罪の言葉であるような気がします。

この歌の場合は、それと似た種類の「ゆるして」を感じます。だからとても怖いのだと思う。

切に「ゆるして」という言葉を発するような場面というのは、たいていの場合、その願いは聞き流されて、許され得ない、ということがほとんどだから。

 

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