初夏愕然として心にはわが祖國すでに無し。このおびただしき蛾

塚本邦雄『日本人靈歌』四季書房,1958

 

「初夏愕然として」…「しょかがくぜんとして」、または「はつなつがくぜんとして」、初句五音と初句七音の、二通りの読み上げ方を有しています。

初句五音であれば〈定型遵守〉の文脈で、七音であれば〈前衛短歌〉の文脈で、今のわたしたちはそれぞれに説明することが可能であって、そのどちらも、同じくらいの強度をもって支持する読み手がいるでしょう。

 

「心にはわが祖國すでに無し」の「すでに」というさびしい副詞は、「初夏」、「愕然」とするほどの何かによって、「心」に「無」いものとしての空疎な「祖國」を立ち上げる。

(塚本邦雄の作品には当初、「日本」という単語はじつはまったく使われていなかった。彼が初めて短歌の中でその言葉を発するのは、大岡信との論争のさなか発表された「貝殻追放」という連作のはじめに、そしてのちに刊行される第三歌集『日本人靈歌』の巻頭に据えられるあの歌。)

 

すでに「ない」ものとしてわれている、この歌の肝であるはずの「祖國」は、

黑き銃熱もつまでに執拗にみがけり 祖國つゆ愛せざる 『装飾樂句』
祖國 その慘澹として輝けることば、熱湯にしづむわがシャツ 『日本人靈歌』

のように、第二歌集以降の作品群においては、愛憎の対象としてたびたび登場している。

今日の歌も、「わが心には」ではなく「心にはわが祖國」と、〈我〉のかかるものが「心」ではなく「祖國」であるところにも、まっすぐでない執着のようなものを感じさせます。

 

歌の最後、語り手によって生み出される「このおびただしき蛾」は、わたしたちの視界をひといきに覆ってしまう。

その大量の虫に〈我〉を持っていかれているような状態のことを、何かに圧倒されて「愕然」とさせられる様子と重ねて理解するともできる。でも、この「理解したつもり」ほど、視野を狭めてしまうものはない。

 

これらの歌が突きつけているものがあるとすれば、それまで「幻想」であったものが、あるときふいに「現実」までとびこえてしまうことに対しての、この「とびこえてしまう」ということに対する違和感のはず、と、ごく当たり前のことを改めて噛みしめています。

 

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