服部崇『新しい生活様式』(ながらみ書房、2022年)
どろ沼というものに一度二度はまったことがあるが、あれは動けば動くほど深みにはまっていよいよ抜け出せない。しずかにして待って、だれかれに引き上げてもらうよりほかないようだ。
このうたでも、「はまつたひと」はなす術なく、ただただ「しづかに沈んでゆく」。とても大事にあたった当事者の描写というふうでなく、スローモーションのようにそのひとを捉える。「さしあたり」、当面、とりあえず今のところは、というこれもいくらも暢気で他人事である。
どろ沼に/はまつたひとが/さしあたり/しづかに沈んで/ゆくYouTube
結句で、これはYouTubeの動画であったのだとわかる。ひとごとになるのも然もありなん、といった感じ。「さしあたり」の冗長なところがわらえてくる。
いっぽう下の句は「すこしづつ液化してゆくピアノ」式の句またがりで、一首にはどこか不穏なところもある。「さしあたりしづかに沈んで」あたりのなめらかなところに、「ゆくYouTube」の体言止めがぴたりときまって、隠喩の気分ただよう。YouTube批判ということかもしれぬ。
あるいは「どろ沼にはまつたひと」というのはわたしのほうで、YouTubeの動画見て無為に時間を過ごし、「しづかに沈んでゆく」ということかも。このクオリアの文章かきなずむ夜など、いくらも身におぼえある光景である。
一読おかしく、二読三読おそろしい、気配濃い一首である。