奥村晃作『象の眼』(六花書林、2022年)
以前は「大道芸人」がきてにぎわっていた「広場」が、コロナ禍でなにもかもなくなってしまってしんとしている。ここでおもいは「大道芸人」や、それをみていた観衆ではなく、広場の、それも「地面」に向いているところに注目する。
「地面」はあの頃どう感じていただろうか。大道芸人きて、あれこれやるその動きをたのしんでいたか。踏まれかたに、そのステップに味わいあったか。あるいは観衆のにぎわいにこころ熱くなったか。
必ずしもポジティブなものばかりではないにしても、「悲しみ居らん」、悲しんでいるだろうなあ、とうたのわたしは思い遣るのだから、ネガティブなものばかりでもなかったのだとおもう。なくなってはじめて感ずることもあろう。
いずれにしても、「地面」の声をじかに聞くということはないのだから(いや、なかにはそういうことができるひともあるとおもうが)、この「悲しみ居らん」という推量は、わたしのおもうところによるものである。
広場という空間そのものでなく、その「地面」に気持ちが向かう。表現上は擬人法ということになろうが、人になぞらえるというよりも、もっと対等なところで「地面」と向き合う、「地面」を見つめているようにおもわれてくる。
おなじ歌集には
玄関から共に入りし蚊が我の耳を刺したり眠ってる我の
という一首もあって、この「共に入りし」の「共に」も、描写にはちがいないが、「悲しみ居らん」に通ずるこころのあらわれを感じさせるのである。やはり一読おかしく、二読三読かなしみさそう一首である。