ショージサキ「遠くの国」朝日新聞夕刊,2022.07.14
「あるきだす言葉たち」コーナーへ寄せられていた連作のうちの一首。
上の句では語り手がわたしたちに優しく語りかけ、一字空けののちの下の句では、作中主体の行動が淡々と、客観的に説明されている。
よく似た構造をもつ歌として、
愛が趣味になったら愛は死ぬね…テーブル拭いてテーブルで寝る 雪舟えま『たんぽるぽる』
を思い浮かべました。
文末の種々の語に付く「ね」は、親しみをこめて呼びかけたり、念を押したりするときに言う言葉。
読み手であるわたしたちに、語り手は同調を誘うように、もしくは当然のように、「似ているね」と語りかけていますが、ほんとうのところ、どうだろう。何かをはぐらかさらているような、不思議な余韻が残ります。
そして、この「似ている」ものたちは、かみしものそれぞれで様子が異なっているようです。
上の句は感応であるところに対して、下の句はおそらく、「青海」・「青梅」の字面そのもののことを指しています。
上の句の地平で「似ている」ことを言い表すのなら、下の句で言及すべきは地形とか、街の雰囲気とか、その場所に内包されるものを指し示すだろうし、
下の句の状態で遡るのなら、上の句で比較されるべきはもっと字面の似たような感情どうしを指示するのではないかしら。
たしかに「さみしい」と「うつくしい」を混同させてしまうのは、危険なことだろうとも思う。
どちらもひとりよがりな感情である、という点でこそ類似していて、読み手であるわたしたちは、間違った方向へ堂々と歩みを進めようとするひとを目の当たりにします。
しかし、上の句でのそのひとりよがりの世界から、下の句では「間違えず」、正しい外の世界へと接続される。
ここで、敢えて噛み合わない「似ている」もの同士を提示することで生まれるものは、「間違えず乗る」ことができるのは、その間違いを知っているひとだけだという発見の煌めき。
「似ているね」と言えるのは、それぞれが「似て非なる」ことのあやうさを自覚しているからこそであるということを、優しく教えてくれるような一首です。