絹川柊佳『短歌になりたい』(短歌研究社、2022年)
道を歩いていると、向こうのほうにローソンが見える。よく知っているローソンではない。あの青い看板が見えたか、建物が見えたか。きっとローソンだとおもう。「ローソンだ」と声に出る。
用があってローソンに行くのではない。買いものをするのでも、探しものをするのでもない。おそらくは中にはいることさえしないだろう。ただ「近くに行って見てみ」るのだ。ほんとうにそこがローソンかを確かめて、ああローソンだなあ、とおもう。もう少しじっくり見る。やっぱりローソン。
見つけたものがたしかにそれであることのうれしさと、気恥ずかしさと、ほこらしさがある。
雨で、横断歩道を渡ってまで、見に行く。用もないのに。それほどに今、「きっとローソンであろうもの」を「そうだとおもった」わたしに、わたしのこころは踊っている。ひるがえって、そうでないわたし、わたしにわたしが確信をもてないわたし、というのも透けて映る。
「近くに行って見てみ」るまでは、ほんとうはわからない、でもこの結句の「渡る」は、ほとんど確信にみちている。涙ぐましくもある。雨とローソンの青がほのかに手をとりながら、「ローソンだ」とおもったこころを道の向こう側へと渡らせる。