土岐友浩『Bootleg』(書肆侃侃房、2015年)
たとえばわたしの身近なところにある、ハンバーガーの店をいくつか想像してみて、夜十時。まだまだにぎわっているのがマクドナルド。もうほとんど誰もいないのがフレッシュネスバーガー(あるいは閉店している)。そのあいだくらいに、モスバーガーはある。
夜の十/時をまわっても/にぎやかな/モスバーガーで/ひと息をつく
この「夜の十時をまわってもにぎやかな」という言い方の、たとえば助詞の「も」には、予想に反して、というこころが少しくにじむ。確信があったわけでなくとも、もうすこし落ち着いているかな、とおもっていたのが存外にぎやか。
おどろくほどではないが、その「にぎやか」にこころが動く。
「ひと息」つく場所としてモスバーガーを選んだのは、たんに近くにあったから、というだけかもしれない。そこにあるいは、そのなかでは比較的落ち着ける、ゆっくりできる、という理由もあっただろうか。
だとしても、にぎやかなそれはそれとしてどこか居心地よく、結局ここで「ひと息」つくことにした。「ひと息をつく」といういくぶん慣用的な表現が、そのまま結句に落ち着いているところに、あるうすい疲労をおもう。
そしてそれは、上の句の句またがりを含む韻律のなかでにぎやかに映るモスバーガーの空間と、いかにも対照的である。「ひと息をつく」の「を」にある、なにか重たい息づかいのことも、おのずから納得されてくるのである。