瀬口真司「天使給電篇」『いちばん有名な夜の想像にそなえて』,2022.05
「ああ、博士」……なんて良い初句なんだろう(ここでは、わたしは「なにやら賢いひと」という意味合いを抱く人物のことではなく、学位のほうの「博士」を思い浮かべています)。
ある現代の詩人が、「博士号が欲しい」と繰り返し書いていたのは、何という詩だったか……。
……少々私情を挟み過ぎました。さて、改めて。
初句の「ああ、博士」。とうとつの感嘆、そして「博士」ののちの一字空け。ここでたっぷりと間を延ばし、その伸びやかさをそのままに引き継ぐ二句目・三句目の「まるでひとりの島みたい」。
ぽっかりと海に浮かんでいる「島」。そこに、たったひとり置かれている作中の主体。
何をするにも自由で、何をするにも最大の責任がおのれにふりかかる。
語り手はそのときの心情を、「どこまでも心が浜になる」と語ります。
不思議なのは、仮にわたしたちが「島」に身を置いているとして、その目の前に広がっているはずの海に対して、
この歌の景として紛れもなく存在しているはずの海に対して、何の言及もされていないように見えるところ。
つまり、「心」の寄せられるものが「浜」であるということ。
ふわふわした内容のようでありながら、この語り手も作中の主体も、じつはきちんと地に足のついた状態の提示されていることが明らかになるのです。
もしも「心」の吸われるものが海だとしたら、途方も無さに打ちひしがれる感の強くなってしまうこと(それこそ、以前取り上げた「脱にんげん」の状態へ陥ってしまうであろうこと)を予感させますが、
「どこまでも心が浜になる」と、「浜」を指示することで、そこを駆けてゆく足を一気に見せつけられたような、その確かな、けれどささやかな足音を耳にしたような錯覚を抱きます。
(しかしながら「浜」は〈海〉とかならず向き合って存在し、目をそらすことを赦されない。
ここで大切なのは、向き合っているのが「山」ではなく〈海〉であることだ、というのは、同じく「ああ、博士」を口にする、とある研究者の卵の感想です。)
ここにあるのは、はっきりとは見えない、穏やかな無敵の感。
しかし、それこそが、きっとこの世でもっともつよいもののひとつ。
遠く、貴く、けれど、いつかぜったいにつかみ取りたいもの。
ああ、と、わたし自身も思わざるを得ない烈しい一首でした。ああ、ああ、博士。