山中律雄『淡黄』(現代短歌社、2022年)
雨が降っている。傘をさして道をゆけば、傘を打って雨の音がする。それが「夏青葉しげる木下をゆくときに」は、そのしげる青葉に遮られて音が「とほざかる」、という一首。「とほざかる」ことによって、むしろ、雨の音はいっそう鮮明に聞こえてくる。
なにかの音が聞こえるというのは、それよりほかの音を聞かない、ということでもあるが、そのことは、同じ歌集のなかの
繰りかへし池の面を打つ噴水が五月の風の音をさへぎる
大なゐにさきがけて鳴るケータイはよそ事思ふことを宥さず
貨車過ぎてふたたびわれのめぐりには春のあめ降るやさしき音す
といったうたにもあらわれている。雨の音を聞いていたときには感じなかった(意識にのぼっていなかった)その音が、断たれたことによって、突然「とほ」くの方にあらわになる。音の変化が、今よりも前の音をようやく認識させる。そこのところが「とほざかる」のこころだろう。
歌集のなかには、さらに
飛行機の地より離るるその刹那われはうつつの重さうしなふ
カーテンを閉ざして高さうしなへる高層二十二階に眠る
といったうたもある。「ここ」にある感覚や力を、相対化するようなうたで、惹かれる。「重さ」も「高さ」も、基準があって測られるものであり、また、その測り方もひととおりではない。なにかを形容することが、そもそも抽象化であったことをおもいださせる。
「消える」わけではなくて「とほざかる」。さっきまで聞くともなく聞いていた音が、遮られたことによって、はじめて聞こえてくる。しかし只中はもう過ぎていて、その「とほざかる」なかに、聞き留めることしかできない。
一首の展開と、そのなかで、結句におかれたこの「とほざかる」一語に痺れつつ読んだ一首である。