梅干しの種しゃぶりつつ見る月のまんまるなのは苦しいよなあ

北山あさひ『崖にて』(現代短歌社、2020年)

 

苦しいよなあ、と言いつつどこかのんきにも映るのは、「しゃぶりつつ」にあるだろうか。

 

梅干しも、梅干しの種も、べつに「まんまる」ではないけれど、なんとなく丸っこくて、そこからしぜんに月へ及んでいく眼差しは、だからどこかでこの梅干しと、その種と、それを口にふくんでいるその口のなかの空洞と、あるいはそうしているわたしと月とをごく親しいものにしているようだ。

 

「まんまる」で「苦しい」のは、わたしでもある。でもそんなこと、今さら言われなくたってわかっている。ずっと知っていた。だからこその、ある種の慣れというか、余裕なのだとおもう。

 

余裕があるように見えるのは、余裕がないことに慣れすぎたため、慣れるしかなかったから、ということが往々にしてある。けれどもこの歌集は、そうやって慣れてしまうことで余裕のなさが見えづらくなることを、いくえにも慎重に回避しているようにおもう。

 

その力いっぱいの抵抗が、いたいたしくも、鮮烈にとどく。そのなかで、今日のこの一首は、いくぶん珍しいうたにおもわれた。

 

もう疲れてしまった、とでも言うように、ぼんやりと月を眺めている。苦しさから逃れることに、疲れたのだ。苦しいとき、苦しいと言って、苦しい顔することに、疲れたのだ。

 

「まんまる」なのはどこにも出口がない。手がかりがない。安定していて、どこかへなだれたり、分裂したりできない。このままでいようとする力が互いに互いをしめつけあって離さない。ずっと、そのままでいるしかない。その苦しさ。

 

梅干しの種しゃぶりつつ、その行為には終わるべきときが来ない。ただゆるやかに、どこまでも苦しさがつづく。

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