読みかけの文庫本『斎藤茂吉歌集』にて百足を叩く 仕方なかりき

王紅花『夏の終わりの』砂子屋書房,2008年

 

不意に現れた虫を読みかけの文庫本で叩き潰した。こんな感じで一首の抽象度を一段階上げると、なんてことのない(そして少し嫌な感じがする)日常の一場面だ。しかし、『斎藤茂吉歌集』、「百足」と具体的に提示されることで、一首の中で言葉がつながり合う。
不意にあらわれたのは、ムカデだ。その容姿はおぞましく、刺されるとかなり痛みが走る。これが、ゴキブリや蚊であれば、「仕方なかりき」という感慨がずいぶんと弱まってしまうだろう。
「百足を叩く」は現在形だが、「仕方なかりき」は過去形だ。その間にある一字空け、そこにはいくばくかの時間の経過が感じられる。無我夢中で百足を叩き、少しだけ間を置いたそのあとに来る感慨として「仕方なかりき」はずしんと重い。本で潰された百足。本も無惨な状態であり、ちいさい命もひとつ失われている。
また、叩き潰したのが『斎藤茂吉歌集』なのも因縁めく。茂吉と虫のエピソードは多く残されている。虫について書いた散文もあり、虫の歌もある。有名な「ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ」(『赤光』)、直截にイエダニとの戦いを詠った「家蜹いへだにに苦しめられしことへば家蜹いへだにとわれはたたかひをしぬ」(『暁紅』)、ダニに苦しめられる「よる毎に床蝨とこだにのため苦しみていまだ居るべきわが部屋もなし」(『遍歴』)など、歌材として虫は多く詠われている。虫に対して執念深かった茂吉なら、その歌集で虫を叩いても(仕方ないな)と思ってくれるかもしれない。(もっとも、それはそれとして、自著で虫を潰したことに怒りそうな気もするが)。
また、茂吉はその生涯が詳らかにされている歌人でもある。「仕方なかりき」という嘆息から導き出される挿話も多い。
婦人との不仲も、永井ふさ子との恋愛も、仕方がなかったのかもしれない。師である伊藤左千夫との対立、芥川の自殺、戦意高揚のための歌を詠んだことなど、「仕方なかりき」という嘆息から想起される。そもそも戦争自体が、茂吉にとっては〈仕方がない〉と言えてしまうのかも知れない…
そんなことを考えていると、茂吉と響き合うことで生まれる「仕方なかりき」という措辞の広がりに、小さく嘆息してしまう。
上句は大きな破調。「文庫本」というフレーズがねじ込まれている。言いたいことを無理くり言ってしまう感じは少しだけ茂吉っぽくもあり、文庫本の明示が茂吉との距離を感じさせもする。

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