生まれる子生まれない子とひしめいて保温ポットの中のきらきら

佐藤 弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』(角川書店 2006年)

 

 今は、保温ポットと言えばステンレス製だろうか。いや、二十四時間通電して保温し続ける電気ポットはもとより、あっという間にお湯を沸かせる電気ケトルも安価で買えるので、保温ポット自体が、もうあまり使われていないのかもしれないが。

 

 ここでの「保温ポット」は、一昔前の、いわゆる「魔法瓶」のイメージだろう。やかんで沸かしたお湯を注ぎ入れるタイプ。蓋を開け、中を覗くと、一面に銀色のメッキが施され、鏡のように光っていた。このようにすれば、熱を失うことをいくらかでも食い止められたのだろう。

 さて、その保温ポットの湯の内に、時々、きらきらと光る小さな粒が見えた。粒というか、粉、金粉のようなものである。それは、中のメッキが剥げたのかと思っていた。しかし、どうやら、水の中から何かの成分が溶け出して、結晶化したものだそうだ。だから、飲んでも大丈夫。

 その「きらきら」に「生まれる子生まれない子」を見ている。してみれば、ポットは、生まれる前の世界である。囲われた温かい空間。光の反射する世界。鏡の神秘が息づく。そこで、子らが「ひしめいて」いる。

 「ひしめいて」には一種の活力があって、今か今かと出番を待っているようだ。この世界から飛び出る時を。押し流される時を。

 湯の対流によって、上になったり下になったり、ぐるぐると子たちは回る。生まれる子もいれば、まだその時ではない子も、当分先の子もいる。「生まれない」という言葉がなまなましいけれど、「生まれる」があれば、「生まれない」があるのも道理で、それはそれとして、あるいは、鏡によって反転させられながら、子たちはめぐる。反射によって、より多くの子たちがひしめき合うように見える。そこに、かつての子たちも、未来の子たちも映っているかもしれない。

 

 きらきら。

 

 本当に、どういうところから、わたしたちは来たのだろう。

 温かいところだった気がするが。

 湯を飲みながら、思う。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です