たそがれのコープ岩倉に購ひぬ「わけあり二十世紀」を三つ

近藤かすみ『花折断層』現代短歌社,2019年

夕方のスーパーでB級品の二十世紀梨を三つ買った。一首が伝える状況は日常の一場面であり、その状況そのものには疑義や引っ掛かりはない。だけども、挿入されている固有名詞が歴史的な文脈を引きつける。

「わけあり二十世紀」はスーパーで売られる際の品名だろう。〈わけあり○○〉は、少し傷があったり、形がややいびつだったり、味には変わりがないけれど規格を満たせなかったものが少し安く売られるときの名前だ。少し形の悪い二十世紀梨が安く売られている様子を想像する。

ただ、「わけあり二十世紀」といわれた時に、梨の品名と同時に時代区分を思い浮かべもする。そして、時代区分としての二十世紀は確かにわけありだったかもしれないと思う。
二十世紀、科学の発展により日常は便利になったが、地球の環境資源をすり減らし、大量に人を死に至らしめる兵器を作り出し、二度の世界大戦で莫大な数の人間が亡くなった。無責任に振り返ると、もう少し幸せなルートはなかったのかななどと思ったりもする。
「わけあり二十世紀」を時代区分として受け取ると、その裏側には訳ありではない二十世紀が想定される。科学は発達し、生活は豊かで貧富の差が少なく、世界中が平和な二十世紀。もちろん、二十世紀はすでに過去となっているので、「わけあり二十世紀」はひとつしかないと思い直すのだけど、主体が買う「わけあり二十世紀」は三つだ。どれも少しずつ違って「わけあり」なのだろう。

「コープ」は生活協同組合が運営しているスーパーであり、「岩倉」は店名であり所在地だろう。「岩倉」という地名からは岩倉使節団や岩倉具視が想起されて、どうしても明治の気配がただよう。「コープ岩倉」が京都の岩倉だとすれば、岩倉具視の岩倉家と地理的にも重なる。

コープ岩倉、わけあり二十世紀、そしてそれを買う主体という構造は、十九世紀から二十世紀へ、そして二十一世紀へと一首の中で時代が手渡されるようにも感じられる。
また、「購ふ」には買うだけではなく、罪をつぐなうというような意味もあるので、明治初期において日本の近代化に大きな役割を果たした「岩倉」に詫びているようにとるのは読みすぎだろうか。「たそがれ」という時間設定も、昏くなってゆく国の行く末を思わせる。

日常を表現した歌を読みながら、日常からふっと離れてしまうことがある。折り重なっている意味を解きながら、気がつけば遠くに立っている。
そこから見える光景はときに眩しく、ときに恐ろしい。

爪立ちに右腕のばしその先の遠い日付の牛乳を選る/近藤かすみ『花折断層』

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