佐近田榮懿子『春港』(青磁社 2008年)
あちこちで花火大会が開かれている。今年は四年ぶりの通常開催というところも多い。花火の原材料費が軒並み上がっていることや、大会運営のノウハウを蘇らせる難しさなど苦心する部分もあるようだが、それでもやはり、夜空に大きく開く花火はいい。何度見ても美しいものだと思う。
「一艘の右舷」とあるので、こちらは水上からの鑑賞だ。すてき。物影に遮られることなく、水面に映る光までもダブルで満喫できる。
そして、「艘」は小型の舟だ。何百人も乗るような大型観光船ではなく、櫓櫂舟、屋形船などがイメージされる。だからこそ、打ち上がる方向に人々が移動すれば、容易にかたむいてしまう。しかも、「倚りて」なので、もう船べりにしっかりと体重を預けて観ているのだ。それがさびしい。
「人らさびしい」 この言い方は、二様に解釈できよう。人らがさびしく思っているのか、人らをさびしく思っているのかの。
「人ら」がさびしく感じているという捉え方であれば、船べりに凭れながら、とりどりの光に浮かび上がる顔がどうしてもさびしそうなのだと思う。美しいものを見上げているのに。花火とは、はじめははしゃいでいても、いつか自分の心を映しながら観ている、そういうものである。しみじみとした内省にいざなう不可思議な力を備えている。日本の花火は、本来、鎮魂のためのものだった、そういうこともどこかで関わっていようか。
一方、人らを主体がさびしく思っているという捉え方なら、一センチでも一ミリでも花火に近づいて観たいという、人間の浅ましく当然の性がさびしく思われるのか。それとも、今この時、舟の上で花火を見上げる人らの存在そのものを、はかなくさびしく感じてしまうのか。
花火も、この一夜も、人生も、一瞬のもの。今はかたむきながらもバランスをとって「ここ」に留まっているけれど、じきに、すぐに、時もすべてもだーっと過ぎ去ってしまう。人らも花火。ひととき光って、溶けるばかり。はかないものをはかない者らが見つめるとすれば、それは相当にさびしい。
そして。左舷は。
この歌には、言葉にならない、暗い左舷が横たわっている。この舟の半分は闇なのだ。
宿命的に、背中に影を負いながら観ることになる花火。
いくら、明るい方を一心に見つめていても。
さびしい。