フェルディナン・シュヴァルよ、蟻よ、かなへびよ、わがいとほしきものは地を這ふ

山田航『さよならバグ・チルドレン』ふらんす堂,2012年

「フェルディナン・シュヴァル」の圧倒的な具体性におののく。一首において、「フェルディナン・シュヴァル」、「蟻」、「かなへび」の三者が並び置かれているのだけど、種そのものを指して特定の個体を想起させない「蟻」「かなへび」に対して、「フェルディナン・シュヴァル」はあまりに具体的だ。
文字数も多い。音数を数えると八音だが、拗音が多く視覚的にはもっとボリュームがあるように感じる。

フェルディナン・シュヴァルはフランス南部にある「シュヴァルの理想宮」の作者。郵便配達員だったシュヴァルは、拾ってきた石などを使用して独力で宮殿のような個性的な建造物を製作した。生前は奇人の類の扱い方をされていたようだが、三十年以上の歳月をかけて製作された理想宮は、シュヴァルの死後文化財として国に登録され、現在でも一般公開されている。

一首の冒頭で提示される人物が〈パブロ・ピカソ〉や〈サルヴァドール・ダリ〉、〈フィンセント・ファン・ゴッホ〉であったなら、あるいは〈アントニ・ガウディ〉や〈ル・コルビュジエ〉であったなら、一首の圧倒的な具体性はいくらか減じていたかも知れない。芸術家としてのイメージが膾炙しており、その含意が直ちに読者に伝わるこれらの人物と違い、「フェルディナン・シュヴァル」は随分とマイナーだ(もちろん大好きで仕方がないという人もいるだろうけど)。「フェルディナン・シュヴァル」が日常の会話の中に出てくることは、あまり多くはない。「フェルディナン・シュヴァル」など聞いたこともない人も多いだろう。シュヴァルの持つ象徴性はあまり共有されているとは言えない。だからこそ、一首は奇妙な具体性を帯び、「わがいとほしきもの」という主体の声が読者に響く。

三つの名詞は「わがいとほしきもの」の例示として挙げられているように思う。「わがいとほしきもの」は「地を這う」ものだとされているので、三者ともに地を這うものという規定がなされているのだろう。

「地を這う」ものというと、聖書が想起される。旧約聖書創世記の冒頭、天地創造の六日目に神は「各種の家畜と這うものと地の獣」を造り、神と似たかたちに人間を造り、人間をして「海の魚と、天の鳥と、家畜と、すべての地の上に這うものとを支配させよう」とする。ここで人間は、地を這うものを支配する者として一段高く設定されている。蟻やかなへびは地を這うものに該当するが、人間である「フェルディナン・シュヴァル」は地を這うものでは(少なくとも創世記においては)ない。

あくまでも一首は「フェルディナン・シュヴァル」を、蟻やかなへびとともに、地を這うものとして提示する。ただ、そこに違和感はあまり無い。「フェルディナン・シュヴァル」が、平凡な郵便配達員として職業人生をまっとうしたことや、後世に残る建造物を造りながら生前は奇人扱いをされたこと、そしてその建造物を拾ってきた石によって造ったことなどの情報を含むからだろう。

また、「フェルディナン・シュヴァル」の具体的な情報を知らない場合でも、「わがいとほしきものは地を這ふ」という下句によって、不遇さや苦しさのようなものを読み取ることことができる。短歌の中に込められた未知の異国の人名の音を感じ、未知の人生に思いを馳せるのだ。

三つの名詞は並置してあるだけでなく、助詞「よ」が付されて主体から三者への呼びかけがなされ、ここから、作者の心寄せを感じる。富や名声とは無縁に生きた「フェルディナン・シュヴァル」同様、多くの人は富や名声とは無縁に生きる。そういう意味では、生前もいくらかの知名度を有し、死後には名前が日本にも届いているシュヴァルは幸福なのかもしれないが、その〈幸福〉が生前に訪れなかったという意味ではより一層あわれなのかも知れない。

僕らには未だ見えざる五つ目の季節が窓の向うに揺れる/山田航『さよならバグ・チルドレン』

※旧約聖書の文言はすべて岩波文庫版『創世記』(関根正雄訳)より。

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