ひと夏の夏百日の一日の金赤のダリア黒赤のダリア

朝井さとる『羽音』(砂子屋書房  2012年)

 

 お盆期間もすぎた。学生の夏休みも残り少なくなってきた。まだまだ暑さはおさまらなさそうだが、それでも、夏は確実に終盤へと向かっている。この夏、どんな思い出ができただろうか。

 

 「ひと夏の夏百日の一日の」は、数ヶ月続くこの夏の日々のうちのある一日、ということを強調している。「natu―natu」、「niti―niti」と、ナ行+タ行の鼻音・破擦音が繰り返されており、口にすれば夏のねっとり感がまとわりついてくるようだ。

 あるいは、「百日」は「ひゃくじつ」、「一日」は「いちじつ」とも読み下せる。そちらでは、漢文調の、より硬質な韻律を賞翫できる。

 

 そうして、多くの日々のうちの一日というところからさらに「ダリア」へと、詠われるものは絞られていく。この、「の」を重ねながら対象にズームして行く手法は、すぐに、佐佐木信綱の、

 

  ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲

                      『新月』

 

 

を思い出させるが、二首を比べると、その印象は大分異なる。掲出歌では、上句五七五が形而上のもので下句七七が形而下のものであり、具体的なかたちあるものの占める割合がより少なく、抽象度が高い。また、行き着くところが二種類のダリアということで、対象を絞って行っているのに、最後で広がってしまうような感じも受ける。

 さらに、言葉のリフレイン、句跨がりや字余りなどによって、リズムの滞りや揺らぎが生じている。初句から結句に至るまでの歌の軸が直線的な「ゆく秋の」の歌と比較すると、掲出歌は跳ねたりうねったりしている。

 

 さて、ダリアである。ダリアにはいろいろな種類があるが、花は、見事な細工物のような万重咲が多い。花びらが丸まりながら、みっしりと細やかに並んでいる。

 花の色は鮮明だ。赤いダリアもよく見かける。ただ、「金赤」と「黒赤」では、同じ赤でも印象がずいぶん違う。「金赤」は軽やかに輝き、「黒赤」はしっとりと落ち着いている。

 

 夏の日を過ごしてきて、今、目の前にダリアがある。あるいは、思い出のダリアをありありと感じている。「金」と「黒」は光と闇。そんな夏だったのだろうか。相反するものを二つながらにしみじみと受け止めている。

 一度しかない夏の、一度しかない今日のこと。

 

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