月光の溜まるプールに水わづか自我の深さと光のかさ

寺井淳『聖なるものへ』短歌研究社,2001年

満水のプールではなく、少しだけ水が残っているプール。明るい月夜なのだろうか。月の光が野外にあるプールを照らし、少ない水が視認できる。プールの壁面もぼんやりと見える。

水が満ちているプールでもなく、水の入っていない空っぽのプールでもない、微妙な水量だ。一首は、視認できた水の浅さから「自我の深さ」に展開する。
「自我の深さ」とはどういうことだろうか。初読時は〈底が浅い人間〉というような慣用句もあり、プールの水の浅さとも重なって、「自我」は必ずしも深淵なものには感じられない。

一首が「自我の深さ」とともに提示するのは、「光のかさ」だ。光のかさも自我の深さと同様に測定が困難だ。ただ、光は自我の深さを照らし出す。月光がプールを照らして水の浅さを視認できるようにしたように、光によって自我の深さが把握できるかも知れない。〈自我〉という空間は光で満たされる。光は他者かもしれないし、自我の枠の外側にある〈私〉かもしれない。

一首の「自我」は主体の自我なのか、一般的な自我なのか。いずれにしても、〈自分〉のことを知悉しているかと言われれば、それはそれでわからない。深いかどうかは別にして、本当に自分が底だと思っている部分が〈自我〉の底面ではないかも知れない。光によって、認識できた自我の深さが本当に底なのか。

そんなことを考えていると月光で視認できたプールの底が、本当に底なのかわからなくなってくる。くるぶしぐらいまでだと思っていた水は、実際には遥かに深いのかも知れない。夜のプールに降り立たなければ確かめる術はない。ただ、夜のプールは降り立って確かめることができるが、「自我の深さ」を確かめることは難しい。
自我の深さとプールの深さが交錯し、月の光と自我を照らす抽象的な光が交錯する。私は私のことをよくわかっていて、同時にまったくわかっていない。そんな言い古された言説に辿り着いてしまう。

「自我の深さ」を考えるとき、その深さを測ることはできず、光を当ててその深さを想像することしかできない。自我の深さに飲み込まれないように、光は絶やしてはならない。油断すると、自我深くあるであろう深淵は、ときに覗き返してくるような気がするのだ。

宇宙の果ての因果の地平逆縁の神葬らむとユダがニーチェが/寺井淳『聖なるものへ』

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