李 正子『ナグネタリョン』(河出書房新社 1991年)
私は私であるけれど、そうは言っても何者なのだろう?
「なお」という副詞が痛切に食い込んでくる。自分が自分であることはわかっている、感じられている。だが、それでも、疑問はいつまでも何度でも湧いてくるのだ。
作者は在日韓国人の二世である。学生として、社会人として、恋の場面で、友達と関わりながら、地域にあって……。これまで至る所で、自分は何者なのかという民族上のアイデンティティーを問わざるを得なかっただろう。
つまり、自分は何者かという問いは、自らの内に沈んでいきながらも、祖国とはルーツとはという大きな流れの中におのれを見出したいというものだった。
〈生まれたらそこがふるさと〉うつくしき語彙にくるしみ閉じゆく絵本
祖国まぼろしいつの日もわれは迷いびと連翹の黄に野はそよぐとも
「焦がるれ」は、切に思い悩むという意味であり、その疑問をどれほど強くひたすらに考え続けていたのかということがわかる。
「夜」なので、この日も、暗い中で思い続けていたのだろう。
その時、稲妻が膝を照らした。これをどう読むか。
もちろん、単に実景なのかもしれないが、何か啓示的なものも感じられる。それは、「ば」で繋がれているからだ。「焦がるれば」に対するリアクションとしての「稲妻」のように思われるつくりなのだ。
また、「雷に打たれたよう」という比喩もある。雷は神鳴。何らかのメッセージが空から自分のところにやってきたと。
たとえば もう悩むのは止めなさい。膝は、立ち上がって歩いていくために必要な部位。膝を照らしたのは、堂々巡りから抜け出して、新しい方向に行ってほしい、行けるからですよということ。
たとえば あなたはあなたです。この膝を持つだけの、身一つのあなたですよ。様々な価値付けを離れた、この今照らされているあなたでしかないし、それでいいのですよということ。
むろん、明確に意識されたわけではない。ただ、かすかに何かを、この時、受け取りはしなかっただろうか。
この歌は、作者の名前と共に読まざるをえない歌である。
だが、一方で、たとえば、民族的なアイデンティティーの悩みを抱えない者にとっても、よくわかる歌だ。
私は何者なんだろう? そんな風に思い悩んだ夜が、誰にでもあるのではないだろうか。
私も折に触れてこの歌を思い出していた。声に出して噛み締めていた。その時、間違いなく、自分自身のことを問い掛けていた。