落ち蟬に触れてするどき羽ばたきよ死ぬ間際まで生きてゐる蟬

大室ゆらぎ『夏野』青磁社,2017年

夏が闌けてくると蝉の成虫が地面やら階段やらに落ちているのを見かける。生死はわからない。もう動かない蝉もいれば、近づくと鳴き声をあげて翅をふるわせる蝉もいる。幼虫としてあまりに長い時間を地中で過ごし、その後訪れた成虫としての短い時間の終わりが感じられて、妙にもの悲しい。

落ちている蝉に触れると、蝉は最後の生命力を振り絞って羽ばたきをした。おそらく飛びたってはいない。ただ、突然に独特な音が鳴るので、主体を驚かせるには十分だったのだろう。鳴く時もそうだが、蝉が立てる音ひとつひとつに圧がある。蝉声の音量は、あの小さな身体から発しているとは思えないほどうるさい。生命力が凝縮したような音に、人間は驚く。

下句においては、理屈の上では当たり前なことが提示されている。「死ぬ間際まで生きてゐる」のは当たり前だろう。死んでいないのだから、蝉はもちろん生きている。言葉の上では正し過ぎるほどに正しい。
ただ、一首が提示する「生きてゐる」は、〈生命を維持している〉という意味ではないだろう。死ぬ間際に羽ばたきをして、人がおののくような音を立てる蝉。一個の生命体として、死の直前まで生き抜いているというような印象を受ける。

そう考えると、蝉のように「死ぬ間際まで生きてゐる」のは、容易なことではない。もう飛ぶことができない状態で、それでも飛ぼうと翅を震わす。そんな蝉に対して、主体は心を揺すぶられ、「死ぬ間際まで生きてゐる」と強く感じたのだろう。

人間にとって、「死ぬ間際まで生きてゐる」のは並大抵のことではない。事故死のように、ある日突然訪れる死に対しては、主体が蝉に対して感じたような、「死ぬ間際まで生きてゐる」という感じは必ずしも受けない。かと言って、病気でゆっくりと生命を閉ざす時にも、掲出歌の落ち蝉のようには、感じないだろう。地面に落ちて死ぬ直前まで生命をまっとうする蝉と、病院のベッドの上で医療機器に囲まれながら死を迎える人間。そこには、ずいぶんと距離がある。

見ず知らずの誰かに、「死ぬ間際まで生きてゐる」と感じさせるような死に方はなかなかできるものではないだろう。だからこそ、生命を振り絞って生き抜いている蝉への驚きと憧憬が、一首には滲んでいるように思う。

人ひとり失せしこの世の蒼穹を夏へとよぎる一羽のつばめ/大室ゆらぎ『夏野』

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