三人だけの歌会であればいつまでも山の話がつづいてゐた窓

松原あけみ『海盆』(本阿弥書店  2018年)

 

 「歌会」というものがある。「うたかい」でもいいが、一般的に「かかい」と呼びならわされている。基本的には、詠んだ短歌を提出し、それを無記名の作品として鑑賞し合う場だ。会場は、公民館や市民センターなどの公的な施設が多い。ただし、どこでもできる。ファミレスや、家、野外でも。人がいて、歌があればいい。ネット上でも盛んに行われている。

 短詩型文学である短歌では、読み合うことがとても大切だ。「この表現でどこまでどんなふうに伝わるのか」という感触を、他者の意見を聞きつつ検討する。自分では見えづらい推敲の方向性を確認するところが歌会なのだ。

 定期的に行われている歌会も多い。そうすると、参加者が少ない回が出てくる。年を経るごとに参加者が減っていく歌会もある。

 こちらの歌では三人だ。三人  もちろん歌会はできるが、少ない。無記名で歌を出すのに、どれが誰の歌かバレバレだ。歌会では自分の歌も平然と評しなければならない場面が出てくるが、作者が明らかすぎてやりづらいだろう。

 そして早く終わる。参加者が少なくては必然的に歌数も少ないだろうから、割合すぐに終わってしまう。そこで必定、別の話になる。

 山にまつわる歌が出されたのかもしれない。それをきっかけに、山の話が始まった。参加者が多ければ歌評をこなすだけでいっぱいだが、ゆとりがあれば、派生して花の話や食べ物の話をすることもできる。私はこんな時間も好きだ。知らなかったことを教えてもらえ、そのことが遡って歌の見方を変えてくれることもある。

 

 ただ、こちらの歌では、その「山の話」をどんな思いでつづけていたのか。盛り上がって夢中だった瞬間もあったかもしれないが、結句にある「窓」にふっと視線も心も逸れた時、少し倦んだような気持ちも生じていたのかもしれない。窓は出口であるから。

 歌数が少ないことはお互いわかっているので、一首ずつに時間を掛けよう、引き延ばそうということが、無意識のうちの協力関係を作り、こういう事態になったのだろう。

 

 一方、窓はフレームでもある。山の話がつづく歌会、そういうひとときがあったことを強調するための。窓の外から覗けば、そんな風に括られた一回性の人生の時間が見えるだろう。歌会はいつでも一回きり。たとえ同じメンバーで行っても、同じ歌会は二度とない。そんな愛おしさを詠んだとも取れる。

 

 本日、山の日。どんな「山の話」だったのか。

 

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