「ピラカンサ」をどうしても聞き取れぬ父に激しく言う「ピラカンサ」

花山 周子『風とマルス』(青磁社  2014年)

 

 「ピラカンサ」  秋になると小さい赤い実がたくさん、たわわに生る植物である。今年も色付き始めた。美味しそうだが、毒があるらしい。鳥が食べているのを見掛けるが、調節しながらついばんでいるのだろう。枝にはトゲもある。

 

 ここでは、この植物の名前を、父に尋ねられた場面が詠まれている。「ピラカンサ」と答え、それでも聞き返されたので、何度か重ねて言った。が、聞き取られなかった。勢い、語調が激しくなった。

 

 この時の父には難しかったのだろうと思う。「ピラカンサ」という言葉を知らなければ、すっと身体には落ちてこなかった。「ピ」と「ラ」と「カ」と「ン」と「サ」の組み合わせ。たった五つの音だけれど、聞こえるのと、情報として処理できるのとは違う。聴覚からの情報は特に、既知の言葉に似ているとか、漢字に置き換えられるとか、英語の単語の一部が入っているとか、リズムが良いとか、そんな自分なりのとっかかりがないと、うまく掴めないのではないか。

 調べてみたところ、「ピラカンサ」とはラテン語だそうだ。……なるほど……。

 

 「どうしても」というところには繰り返し答えさせられることへの苛立ちが感じられる。

 だが、何度も言っているうちに、「激しく」なってくるのももっともなのだ。「ピラカンサ」という音が、激しくならざるを得ない音節の集合体であるから。「ピ」は破裂音。唇を閉じ、口中の圧力を高めてから一気に息を吹き出す。「ラ」は舌の真ん中を硬口蓋に打ち付ける弾音。破裂音に近い。「カ」も破裂音。舌を軟口蓋に押し当ててから、息を勢いよく出す。そして、鼻母音化した「ン」で一度溜めてからの「サ」の摩擦音は、より擦れて、勢いが増す。

 つまり、息を勢いよく出させるような音ばかりなのだ。これでは語気が荒くなるのも当然だ。放たれた言葉が感情を連れてくる、音が身体に作用する、そういうこともあったのではないか。

 

 本当は、激しく言いたくはなかっただろう。だが、こうなってしまった。「父に」というところがポイントであって、他人にならそうきつくは言えないから、これは一つの甘え方なのだろうとも思う。

 赤い実、美しい実、毒の実、トゲの枝。ピラカンサの持つその複雑さが、この時の心、その場面を思い返した時の心と遠く引き合う。

 また、一首は意味の区切れと句の切れ目がずれていて、これもまた、気持ちの乱れが表れているようでもある。

 

 「ピラカンサ」、声に出してみる。「ピラカンサ、ピラカンサ、ピラカンサ。」

 ……何かやっぱり、昂ぶってくるような。

 

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