齒の痛みにさらすぶざまはうつしみに恥多くとも生きて在るゆゑ

一ノ関忠人『べしみ』砂子屋書房,2001年

歯が痛いのは辛い。ましてや一首の主体は不様を晒すほどに歯が痛いのだ。大の大人が歯の痛みに狼狽えているのはどこか滑稽な一方、例えば親不知を腫らしているような状況を思いおこすと、そりゃあ狼狽えてしまうよなと思う。

歯の痛みに不様を晒しているという状況が提示されている初句二句はわかりやすい。前述のとおり、読者は自己の経験を代入しやすく、そこには納得感がある。その一方で、三句目以下の感慨は随分と大仰で、そして微妙なねじれがあり、一瞬戸惑ってしまう。

「うつしみに恥多くとも生きて在る」というのは不思議な把握だ。「うつしみ」は現し身、この世に生きている我が身のことだろう。そんな現し身に、恥が多くとも生きて在るのだという。何が在るのかといえば「私」であろう。歯の痛みに不様な様子を晒しているのは、恥が多くとも生きてこの世にある身体に私が存在しているからだという。

痛みによって生を感じる、というような把握は一般的なものだろう。病気や怪我によって身体の存在が認識されるというのはあり得ることだろうし、痛みによって生の実感を得るというのは一首の主題になり得る。もちろん一首はそれに近い部分もあるのだけれど、「ぶざま」や「恥多く」という語の斡旋によって、痛みと生の実感が直結せずに、その間に自意識が入り込むような気がする。

歯が痛むのは現し身だ。第三者からみて痛みを感じているのがわかるほどに、肉体は痛みをあらわにしている。その一方で、その様子を不様であると把握しているのは現し身の中に在る存在だろう。一首からは心身を二元的に捉えているような手触りがある。歯の痛みという極めて日常的な現象から、随分と深いところまで思考が降りていったなという驚きがある。

「生きて在る」という措辞からは、恥も不様も受け入れるような強さを感じる。「ゆゑ」という結語は、諦念のようにも、決意ようにも響く。この世でこの身体を賜った以上、粛々と生きていくしか無い。一首を読みながらそんなことを考え、私も疼く奥歯が気になりはじめる。

曼珠沙華くれなゐ朽ちてむらがれる田の畦すぎつ風に吹かれて/一ノ関忠人『べしみ』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です