澤村 斉美『夏鴉』(砂子屋書房 2008年)
目立つ歌ではないけれど、じわじわと沁みて忘れがたい。
「杉」自体がそもそも地味だ。都市部でなければ割合にどこにでもあり、丈夫で加工しやすい材で、植林するといえば杉をという時代が長かった。木が生えている山はかなりの確率で「杉やま」なのではないだろうか。
「遠くにひかる杉やま」は、職場の、とあるガラス窓から見えるものか、故郷の道端から眺めたものか、学生時代に旅先で印象に残ったものかもしれない。
とにかく、自らのどこかにその存在があるような気がするのだ。心の中にというよりは、重なり合う感じ。二重写しのからだの影として。実際に、窓に映る自分の向こうに「やま」が見えるのかもしれないが。いずれ、そういう、包まれる、抱かれるような大きい感覚として、この杉やまはある。
「遠く」には、視界の遠方という捉えと、思いさえすれば身に添うように現れるけれど今は眼前にはない、という二つの解釈とがある。
「ひかる」は励ましだろう。「いつも」ひかってくれる。ささやかだけれど、大切な風景。そういうものに、実は支えられているということはある。
眼前にあるにせよ、ないにせよ、それらはモディファイ 部分的にも変更を加えられ、象徴性を獲得し始めていよう。
「杉やま」というひらがなを用いた表記もほっこりとしていて、おとぎ話のようである。風景は身になじみつつ、自分なりの自分のものとなってゆく。
風土を身に取り込むというのだろうか、そこまで大きく捉えなくても、「影」は、頼りない一個の自分という存在がどこかに吹かれて飛んでいかないように留めるための重し、外界から切り離された心細い自分が何かと繋がるためのよすが、そんなふうにも思える。その時、「杉やま」の有する黒さ、暗さ、深さも力となる。
そして、「杉やま」を影とするこの時、「わたくし」も一つの景観になる。
さて、木はすぐには大きくならない。五十年後、百年後を見据えて植えるものだ。だから、自分の代にどうこうしようとするものではない。孫子の代に何かになってくれれば、そういう思いが、日本の「杉やま」である。(花粉症を呼び込むということで、植え替えの話が出ているけれど。)私の祖父も、裏山に杉を植えてくれた。困ったときにはこれを売って足しに、という気持ちだったのだろう。そういう日本ならではの杉への思いは、この「杉やま」のひかりに、0.0001%ほどでも作用していないか。
もう一つ。古来、「やま」とは、祖霊がこちらを見守ってくれる場所でもある。そういう場を「いつも」感じうることは、いくらかでも安らかさをもたらさないだろうか。
私は私の「杉やま」として読みながら、この風景に励まされている。