水切りの石跳ねていく来世ではあなたのために桃を剝きたい

岡本真帆『水上バス浅草行き』(ナナロク社、2022)

これと似たモチーフを組み合わせた有名な歌に「本当に愛されてゐるかもしれず浅ければ夏の川輝けり」(佐々木実之『日想』)というのがある。愛されているのかもしれない、というほとんどひらめきに近い気づき。そしてそのひらめきを裏付けるように、水辺から光のシグナルが送られてくる —— 。この一首の中で、主体はほとんど受け身のまま、恋愛の高みへとのぼっていくようである。

それに比べると、掲出の歌はどうだろう。受け身だった佐々木の歌とは逆に、「あなたのために桃を剝く」という能動的行為にのみ願いを託している。仮に来世でその願いがかなえられたとして、行為の結果、相手に「本当に愛され」るかどうかなど、この主体は問題にしていないようにも見える。願いが自分の行為だけに向かっていくのは、「あなた」と幸福な関係を築くことはできないという、佐々木の歌とは真逆の確信があるからだろう。かなえられないとわかっているからこその逆説の祈りがここにはある。簡単に跳ねていく水切りの石は、既に決定されてしまった運命を裏付けているかのようだ。

『水上バス浅草行き』という歌集を読んでいると(それは歌集のタイトルからしてそうなのだが)、決定論といえばいいのか、予定された運命にちらりと視線を投げかけ身をゆだねていく主体の態度を感じることがある。

恋人になれたわたしに遠くからゆっくり近づいてくるピピピピ
フライングしないことだけ考えろ位置に着いたら順に春風
きみだけの名の呼び方があったこと蹴った小石はやがて水路へ
花びらを搔き消す風雨いつの日か君を喪うから抱きしめる

「ピピピピ」にはセックスとか、あるいは別れといったことを代入できると思うのだが、恋愛にたどり着けばいずれ宿命のごとくそれがやってくるということを、主体は気持ち悪いとも怖いともいわず、ただ感じ取っている。二首目が語るのも、自分はただ尋常なスタートを切ればいいということであって、そのあとのことはもう運命にゆだねるしかない。威勢のいい口調とは裏腹に、ここにうたわれているのはある種の諦念であると思う。三首目も掲出歌の水切りと同様、予定調和のごとく水路へ転がり落ちていく小石が、どうせ別れるしかなかったのだという運命を補強する。

いるかのかたちの軽石 きみがいなくなってもまだいるかに見えている

でも、こんな歌もある。常に運命の中を行き来してきた主体が、こんなときふいに小さな運命から逃れ出る。「別れる」という大きなほうの運命からは逃れようもなかったけれど、それでも主体は、いるかの石を残してくれた運命のお目こぼしを今は大切にかみしめている。

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