せいねんの君に惨たる不幸あれふかぶかとして青きてぶくろ

村木道彦『天唇』(茱萸叢書、1974)

死にてよき土地を想えばふかぶかと雪を積みたる貨車駅に着く
ろうろうと天にとどろく風に告ぐ「ひとはさむさのなかに生れき」

村木道彦の『天唇』といえば、とにかく夏の印象が強いが、冒頭の一連「風に告ぐ」には冬のイメージが連ねられていて、意外に思う。掲出歌とあわせて、ここに引いたなかには「ふかぶかと」という言い回しが二度出てくるのだが、着ぶくれた服や深い雪に通ずるこの言葉を、村木は冬にふさわしいと感じていたのかもしれない。

ところが、掲出の歌に「君に惨たる不幸あれ」と、唐突な加虐願望が示されるとき、「ふかぶか」という語でしめされる手袋の厚さは、主体から「君」に与えられる呪いの深さといったニュアンスを帯びてくる。そしてまた私には、この歌における「せいねんの君」が実は主体自身であるように見えてならないのである。命令形で強く、まっすぐ前にむかって発せられるかのような上の句とは裏腹の、語調を弱めながらゆっくりと手もとに視線をおろしていくような下の句の調子が、そう思わせるのかもしれない。だとすればふかぶかと呪いを帯びた「青きてぶくろ」を、この主体は今、みずからはめようとしているのではないか。

死こそわがあこがれとしてあるときを鋪道はひかるアスファルトいろ
たとうれば布団がこれが屍衣ならば――身動きもせずくるまれている
愛しあうひとりなければゆびのの塩をなめおるわかものなりき
わが軽くけつまずくとき撲たれたきが見ゆ固く大きその掌が

『天唇』はなんといっても「するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら」という歌が人口に膾炙して、こんにちまで記憶されている歌集である。しかし、実際この歌集を読んでみると、そこにあるのはマシュマロの歌のごときどこへ出しても恥ずかしくない青春の像ばかりではないことに気づく。私の目についたのは、投げかける相手のないままやがて自身へと向かってくる加虐の願望、そして明確なイメージもなく軽く念じ続ける死の概念、そういった歌の数々だった。

ここには、マシュマロの歌のようなさわやかな青春にあこがれながらも、どうしてもそこに手をかけられない、まるで別人のような主人公がいる。そして、まだ青年とも成年とも自分を認めることのできない「せいねん」時代の心の危機を、恋人のないさみしさをストレートに詠むような幼さを装いながら、さらけだしている。それが『天唇』の本当の価値だと思う。だからこそ私も、ようやくかわき始めたかさぶたをはがすような気持ちで、またもこの歌集の「せいねん」に、会いに来てしまうのだった。

*引用は『現代短歌全集』16巻(筑摩書房、2002)によった。

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