ギャラリーへ続く階段くだるときしんと寡黙になる貌を見き

菅原百合絵『たましひの薄衣』(書肆侃侃房、2023)

「階段くだる」という動きをまず示し、下の句では横にいる〈あなた〉の顔をちらりと盗み見る。そのとき、もともと早くもなさそうなこの映像が、はっきりとスローモーションに切り替わって、その横顔の微妙な動きまでをとらえていく。『たましひの薄衣』という歌集をいく度か読んで、私がそのたびに驚かされるのは、一首一首のこうした〈遅さ〉なのだった。

スカートの裾ゆつたりと捌きつつ春のねむたき坂くだりゆく
午前から午後へとわたす幻の橋ありて日に一度踏み越す

掲出歌に似た「坂くだりゆく」がここにもあるが、下り坂ならそこを駆け下りる軽快さを出してもよさそうなものを、菅原の歌はやはりこんなに遅い。あるいは、導入部で「スカートの裾ゆつたりと」というとき、春に穿く丈の長いスカートの、いくらか軽やかな生地をつかむ手の動きや裾の揺れを、やはりスローで見せられるような思いがする。二首目が詠んでいるのは、午前と午後にはさまれてある正午というほんとうに小さなすきま(理屈の上ではそんなすきまはないはずなのだが)にかけられた、短い橋を通過する一瞬。そこにあえて「踏み越す」という強い能動表現をあてることで、この幻の瞬間をクローズアップしてみせる。

しかし実際のところ、これらの歌の〈遅さ〉は、ここに書いたような分析によっておそらく半分も説明できてはいない。『たましひの薄衣』という歌集には、テクニック以前の初めから〈遅さ〉のモードが仕組んであって、読者はページをめくった瞬間からそれを感じ取る。これまでに私が取り上げてきた、たとえば小野茂樹や村木道彦の青春歌にある、前に進むことを希求する精神と、それはあきらかにちがう点だ。この歌集の主人公は、前に進もうという明確な希望はとうに捨て去って、春のけだるい坂をいつも低回している。

手を頬にあててしづかに聞きくれぬ頷くときに翳る横顔
睫毛長きひとのよこがほ まばたきのたびをたたむ蝶のごとしも
もの言ふに声荒げしことのなき人なり鼻梁なだらかにして

さて、読者は気づくだろう。掲出歌をふくめ、この主人公は一冊の中でこんなにも〈あなた〉の横顔を盗み見ている。〈あなた〉の顔という磁場に接近したとき、この人はリモコンの停止ボタンを押して、手帳にその形をさっとスケッチするような手つきがある。低回する主人公の心がいちばんの感動を生むのは、自分のいちばん大切なものを記憶に焼き付けようとするその瞬間だと、私には思える。

『たましひの薄衣』には、作者の西洋文学への知識に裏打ちされたおびただしい数のエピグラフや詞書がちりばめられている。それらが読者にとって持ち重りすることなく、案外すんなりと受け入れられてしまうのは、感情や教養をしっかりと受け止められる〈遅さ〉、ときには停止までしてつぶさに見ようとする慎重さがあるからだと思う。だって主人公も、〈あなた〉の横顔をあんなに盗み見ているではないか、そう自分に言い訳をしながら、きらびやかなエピグラフの合間に見え隠れする、その〈遅いこころ〉をちらりちらりと覗き込むのは愉しい。

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