閉ざしたる窓、閉ざしたるまぶたよりなみだ零れつ手品のごとく

内山晶太『窓、その他』(六花書林、2012

『窓、その他』というタイトルのとおり、「窓」のよく出てくる歌集で、初読時にはその意味するところを考えたものだった。しばらくして再読すると、今度は「目」を含む歌が多くあることが気になった。掲出歌にはその「窓」と「目」がともに含まれている。しかし観念的で、この一首から具体的なストーリーを描き出すことは難しい。

ひとつたしかなことは、この歌集で「窓」と「目」はしばしば類義語に近い扱いを受けるということである。つまり、窓は単に建物の壁に開けられた穴というのではなく、ともすれば涙のあふれそうなほど感情や人間性を湛えうるものである。逆に目のほうには、単に人体に開けられた穴であるかのような把握がつきまとう。そのことに注意すると、掲出歌に関しても、あるいは歌集自体についても、その感情に沿いやすくなる。

船橋に目を見て渡して無視さるるティッシュ配りの人の目を見き
レスラーはシャツを破りて瞳孔をひらいてみせる夏の終わりに
目に蓋のある人体のかなしさを乗せしみじみと終電車ゆく
猫の目の角膜のよきもりあがりを間近に風のゆうがたとなる
ゆるみたる目のなかの川見ゆるとき観覧車から剝がれゆく錆

はたしてこの歌集は、世界へのあたたかなまなざしとユーモアに満ちているようでありながら、実際にはかなり不穏な要素が盛り込まれている。決定的なのは主人公と他者とのコミュニケーションがほとんど描かれないことであろう。主人公はさまざまに歩き回りながら他者の「目」を見、そこになにかを求めているようでもあるのだが、そうすることで他者との関係が立ち上がることはない。

一首目に描かれるのは「ティッシュ配りの人」と通行人とのコミュニケーション不全の経緯であるが、主体は、今その一連の流れとは関係のない場所に立っている。いくら「目を見」たとしても、主体とティッシュ配りの人との間にはコミュニケーションの成功も失敗もおこりえない。そんな調子で、この歌集の〈目を見る〉は常に、関係性の起こりえない場所で行われている。相手が動物だったり、テレビの画面のむこうにいたりすることさえもあるのである。

私にはどうもこの歌集の主人公が、テレビをザッピングするかのように幾人もの目を見まわりながら、ある瞬間を探し求めているのではないかと思える。「ある瞬間」とは、もちろん掲出歌にいうところの手品のごとくなみだ零れるその瞬間ということになるだろう。これは実に微妙な欲求だ。決して、人のぬくもりへの渇望をいうわけでもなく、目の前に透明な幕を下ろしたように距離をとりながら、しかし、標本を蒐めるように他者の感情を探し求める。ひとつの答えとして、私の考えたのは、ひとはひとりでしか・・・・・・・・・生きられないという諦めがここにあるのではないかということだ。てのひらでじわりと押し込むたびに蜜のにじんでくるような、それは重い安堵のしみこんだ諦めのように思う。

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