衰弱と睦みゐたるは甘美なりわれが風邪ふうじやの癒えなむとして

『百乳文』森岡貞香

風邪をひき臥せっている。「癒えなむとして」とあるが、まだ病床の中だ。作者は体熱や汗をまとった身体のほの甘い匂いの中で、身体の衰弱とともに安寧のようなものがあることに気づいている。「衰弱と睦みゐたるは甘美なり」とはそういうことだろう。その双方からくる倦怠感が、「甘美なり」という言葉に顕著にあらわれ、一首にはなにか奇妙な充実した感じさえある。病気の中においても、いや、病中であるからこそ、自身の肉体的な自然に鋭敏になり、その感覚を手放さずに言葉にする。強い自己意識といえるだろう。

歌集名の「百乳文」は、中国の古代青銅展で見た殷前期の大方鼎にしるされていた数多の乳首の文様であるというが、「百乳文」という言葉にもより引きつけられたと「後記」にある。その影響かどうか、歌集には肉体にかかわる歌が多い。「ゆめ覚めのはじめに見えつうつせみはちひさき凹凸よりあへるもの」「へや満たす雨音のなかぐつたりとして運動ををはる寂しく」。

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