握り締めたる指ひとつづつ解くやうに失くしたしこゑも名前も影も

横山未来子『水をひらく手』(短歌研究社、2003

第二歌集『水をひらく手』の終わり近くに登場する一首。歌集の序盤には、

忘るとは解かるることと知りたるにみづから紐を結びなほせり

という歌があり、掲出歌はこれへの応答としておかれていると考えるのが普通だろう。この歌集の前半で目を奪われるのは、主人公の〈きみ〉に対する途切れることのない感情である。「忘るとは…」の歌で主人公が「紐を結びなお」して忘れまいとするのも、掲出歌で一転「失くしたし」と言っているのも、つまりこの〈きみ〉の記憶なのである。

しかし、私には、掲出歌の主体が「失くした」いのは、〈きみ〉の記憶ではなく、〈きみ〉への思いを遂げられない自分そのものだという解釈もなりたつと思える。先の「忘るとは」の歌から引き離し、この一首のみを読めば、むしろその方が自然な解釈ではないか。つまり、「こゑ」を出せさえすれば、こちらをむいていない人を振り向かせることができる。しかしそんなものはもういらない。「名前」は、一人の人間が社会のなかで生きる存在であることのあかしである。それも、いらない。私はここに、夏目漱石の有名な俳句「菫程な小さき人に生れたし」をどうしても連想してしまう。人との“関係性”を棄て、庭の植物にまぎれる小人のように生きたい。掲出歌にも漱石の俳句にも、そんな暗い願望が込められていそうである。

さりりさりり雪へと育つ雨の朝終りなき関はりといふものあらば
若き父にならむと思ひ見しきみもわれも濃緑の生に入りゆく
土の下の種よりしろき根の伸ぶる音聞くやうに雨夜ねむりつ
鳩の群れ泡だつやうに飛び去りてその場所に生まれ出でたるひとり

『水をひらく手』という歌集は、前半では〈きみ〉の存在がかなり頻繁に詠まれ、主人公との関係も把握しやすいのだが、後半になると〈きみ〉は次第に後退し、その隙間をうめるように今度は多くの自然描写が入り込んでくる。上の引用の「きみもわれも濃緑の生に入りゆく」の淋しさには、熱帯植物園のような非人間の名もなき生き物が繁茂する世界で、ごくあたりまえの運命としてふたりが互いを見失う、いくらか大げさに言えばそういうイメージがつきまとうのである。この濃緑の自然はやがて歌集に充満し、歌集前半では〈きみ〉の存在に反射させるように描かれてきた主体自身の姿もついに薄められていく。漱石が「菫程な」とちっぽけな自然のかけらに託したのと同じ願望が、この歌集ではより大きな自然の力を借りながら達せられようとしている。

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