よぎる顔の定かならざる日暮れには数式のごとく会えぬ君あり

田中雅子 遺歌集『青いコスモス』(青磁社、2014)

日暮れどき、たしかに、人の目の弱くなる時間帯というのがあるものだが、これはむしろ主体の人生におけるそのような〈時間帯〉をいっているのだとみてもいい。自分の人生が、先々の未知ゆえにきらめいて感じられた日々はとうに過ぎ去り、人生でかかわった人々の印象ももはやぼんやりとして、あるいは、自分にとっての社会というものも見えにくくなった時間帯(しかしまだ夜は訪れず、しばらくは生き続けねばならない)、長い間想い続けている「君」に会えないという事実だけが厳然としてある。

田中の生前に刊行された『令月』(砂子屋書房、1997)という歌集には、その冒頭の第一首に、

とり落としたる卵のごとし沈黙のままわが夢をよぎりし君は

という歌がある。ここにも「よぎる」があった。夢のなかで近づいてくるその人が「君」であることに、主人公はもちろん気付いている。しかし「君」の方が気付いてくれない。その取り返しのつかなさを落とした卵に喩えるのだろう。落とした卵は割れてしまう。

「会えない」という事実を残酷に示す「数式」と、もうもとどおりにはできない「卵」。そう考えると、今日の掲出歌では、主人公がはなから解くことをあきらめてしまったような数式の壁のむこうに「君」はまだ無傷のままにいる。数式の壁は正しく解けば開かれるはずだ。「数式のごとく会えぬ君あり」という一見奇妙な吐露には、解きさえすれば会うことができるという一抹の安堵と、それを解けるのは自分ではないという失望とが入り交じっているように思う。

顔も声もこうして忘れてゆくのだろう回送バスがわが前過ぎる
ほんとうの恋をしたから夏蒲団陽に当てるだけの日常でいい
踏み切りを渡れば君に逢えたのに消灯と晩年はきっと似ている
コンパスで円を描けば浮かびくる夏の日の君のシャツの袖口
『青いコスモス』

こうやって並べてみると、「君」と〈私〉のあいだには往々にしてバスとか踏切といった装置が仕掛けてあって、それがふたりを引き裂いていく。実は主人公にはこの装置を踏み越えていく力があったのに、そこには何か大人の判断があって、「君」に向かっていくことはできなかった。そんなふうにも見え始める。しかたなく、まるで数式を解くことの疑似的行為のようにコンパスで円を引き、そこにささやかな「君」の像を描き出す。二首目は、他とは趣を異にするのだが、こんな苦しい恋慕の先に、突き抜けたすがすがしい悲しみのあることを記憶にとどめたいと思い引いた。

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