雨期の地に呪詛の掌のごと揺れてゐる羊歯ありくらく永き平和よ

杜沢光一郎『黙唱』(角川書店、1976)

まるで糸の先に結びつけられたおもりのように、「くらく永き平和」が歌の末尾にぶらさがっている。この平和にはおよそ積極的な価値が読みとれそうにない。なにか取り返しのつかない過ちの結果として出現したような、重苦しい平和である。あるいは「雨期の地」という言い方に、そこには主体の慣れ親しんだ土地ではない、ときに急なスコールが訪れるような舞台をつい想像したくなる。たとえば戦後の沖縄や小笠原をこの歌の「雨期の地」が示す舞台と考えてみても誤りではないだろうとは思う。しかし私の読みは、どうも違う方へと向いていく。つまり、「雨期の地」はきっと、旅行で訪れた地や知識で知っているのではない、主体の思念の中にうつる、生きた人間の踏み込めない土地ではないかと思えるのだった。

『黙唱』は、1976年に相次いで刊行された「新鋭歌人叢書」のなかの一冊(先にとりあげた高野公彦の『汽水の光』もこれに含まれる)。掲出歌はその冒頭の第一首であり、一連「永き平和」のなかに含まれる。ここから、もうすこし引いてみる。

一斉に手を挙げてをり傍観に万歳は寥しきかたちと思ふ
いだくべき祖国もたざる腕しろく庭の夏草を妻と抜きをり
稽古場の裏路くれば泣き方のさまざまを習ふこゑのしてゐる
夜の路地に縄跳びをする男ゐてしぱしぱとつちをうち鳴らしをり

二首目の祖国のうたわれ方には、やはり敗戦後の「永き平和」のけだるさが現れているのだろう(寺山修司のアノ歌のことはこの間も書いたから、もういちいち引き合いに出さなくていいとして)。一方で、それ以外の三首のように、「裏路」「路地」を歩きながら人々の暮らしを「傍観」する歌が多くあり、不思議な味わいを醸している。私はどうも、なにがしかの霊魂のごときものが、じんかんをさまよって、今を生きる人々の営みをじっと観察しているような印象を受ける。今にも「くらく永き平和」から抜け出そうとする魂が、人間の世を下見している。泣き方の稽古も意味ありげだ。——その霊魂はつまり、生まれてくる子供なのではないか。実際、この一連の数ページ先では歌集の主人公(=作者とみていいと思う)の妻の懐妊が明かされ、さらに長男の誕生が描かれるから。

あたらしきいのちみごもる妻とゐて青き蜜柑をむけばかぐはし
胎児いま嬰児となりてこゑをあぐあゝ直截にき示威のこゑ (長男篤)

まだ青い蜜柑を剝く行為は、ともすれば身ごもった子を堕胎させるかのようなイメージに連想させるのだが、その子はあたかも主体を責めるかのように産声ならぬ「示威のこゑ」をあげながら生まれてくる。敗戦後の「くらく永き平和」を大人としての充足した気持を得られないままに生きる主体と、母の胎内という「くらく永き平和」から混沌とした戦場へ向かうかのようにこの世へ生まれてくる子供のすれちがい。こんな解釈は作者の意図とは離れているとも思うのだが、『黙唱』という歌集の独特な重さを私はそんなふうに理解した。

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