黒瀬 珂瀾


殺したき男ぐらぐら煮てゆけば口あけて貝のごとき舌見ゆ

加藤英彦『スサノオの泣き虫』 

 

いきなりぶっそうな描写。殺してやりたいほど憎い男を煮ているのだという。西欧の童話にある魔女の大鍋か、日本古来の五右衛門風呂か。「ぐらぐら煮てゆ」くのだから、《私》はまさにその煮え上がる男の眼前に立ち、火をどんどんくべているのだろう。そして煮え殺される男の口が開く。その中に見えるのは舌、まるで貝の身のようだという。

 

ここで歌の光景が一転する。文字内容としては「煮える男の舌がまるで、茹でた貝の身のようだ」という歌だが、やはりこれは幻想なのだろう。「口あけて」までは、たぎる怨念から生み出された妄想であり、読者ははらはらしながら追いかける。そして「貝」の一語が出てきた瞬間に、この歌と現実とのリンクが見え、現実の光景が歌の内容と並走しだす。つまり、作者が今煮ているのは「鍋の中の貝」であり、煮え上がった貝が口を開き、舌のような身をさらしているのだ。

 

しかしこの歌では、煮ているのが本当に「男」か、それともそれはただの比喩なのか、現実か虚構かの判断は下さない。ただ解るのは、作者にとってその「男」は、鍋の中の「貝」のようにとるにならない、ただ食らう以外に価値のない存在であるということだけだ。

 

  総身の力しぼればまだ立てる気力はあるか夜の厨に

  暴力という湯が滾る日常にひりひりと灼かれゆきし向日葵

 

暴力、というものがこの世にはある。人間のものでありながら、人間が御することのできない力。その力の下にあえぎつつ、人は渾身の力で夜の厨に立たねばならない。例えこの世界が、暴力という湯に満たされた鍋であったとしても。掲出歌の場合、その背景には家族関係があるらしいが、それはこの場ではまあいい。ただ、一人の人間が誰かを「殺したき」と思うまで追いつめられる苦しみが、茹った貝のようにでろんと垂れる舌の幻に込められている。その舌を煮るのもまた、「暴力という湯」であれば、全ての悲しみは繰り返す他ないのだろうか。