つまらなき世辞をさびしみ樹を下る一匹の蟻をわれは見ていき

千々和久幸『火時計』

 

社会にあれば、世辞は聞きもし、言いもする。そうやって互いの立場を確認することで、限りあるこの世の分け前を確保し合う。傍から見れば滑稽な風景ではあるが、かように浮世の義理を泳ぎ渡っていくことこそ、家族を養う人間の責任ではないか。単純に馬鹿にして済むことではない。だから、「つまらなき世辞」を聞いたか言ったかした「われ」は、そのことを他の人間には伝えない。一匹の蟻を見つめるだけだ。

 

さて、この歌の中で「世辞をさびし」んでいるのは誰だろう。歌意からとれば「われ」だろうが、語句の繋がりを見れば、「一匹の蟻」が世辞をさびしんで樹を下っているとも読める。つまり、「一匹の蟻」と、それを見つめる「われ」とが、だんだんと混じりあってゆくのだ。このとき「樹」は、「寄らば大樹の影」の言葉通り、人の拠り所のメタファーかもしれない。さしづめこの場合、会社や男性社会だろうか。蟻は樹を下りるが、「われ」は社会という樹をまだ下りられない。「われ」の心は蟻の内にあるが、身体は樹の前から動かない。

 

  定年とう排出口より吐かれゆくどの顔もほがらな挨拶をなし

  変節は常のことにて酔うふりをして聞く世辞も社交の一つ

  要領を得ぬ言い分に付き合いてホテルのバーを追い出されたり

  槐一本創業記念日に残したるほかかくべつの仕事はなさず

 

うわべの笑顔で場をつくろい、世辞をかわしあい、酔談に付き合って義理を果たし、時には与えられた立場に甘んじる。浮世を生きるのもなかなかに大変で、情けないものではあるが、それを淡々と歌う姿には不思議なおかしさと哀愁の入り混じった詩情が漂う。そういえば、作者は最新歌集で、こうも歌っている。

 

  この日また他人の時間を生きた気のして終電にほうと息つく   『水の駅』

 

 

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