梨に刃を差し込みながらたしかめるどこまで君をわかっているか

江戸雪『駒鳥(ロビン)』(2009年)

梨は、日本や中国に原産する野生種のヤマナシを改良してつくられたもの。
歴史は古く、7世紀の末にはすでに栽培の記録がある。
無し、につながる名を忌んで、ありの実と呼ばれることもあった。
明治中期以降、赤梨の長十郎、青梨の二十世紀が主な品種だったが、戦後、甘みのつよい幸水、新水、豊水が栽培の主流となった。
梨の実の独特の食感は、石細胞とよばれる細胞壁の固くなった細胞が実にふくまれることによる。
洋梨にも石細胞はあるが、ずっとすくないので、欧米人は日本の梨のことを、砂のような梨という意味でSand Pearと呼ぶことがある。

君、とは誰か。
たとえば主人公の子供のこと、と読めなくもないが、やはり恋人のことだろう。
梨に刃を差し込む、というみずみずしく、そしてすこしいたましくエロスの匂いもする表現は、相聞にふさわしい。

恋がはじまるとき、わかりあうことは、たぶんそんなに切実な重要性をもたない。
フィーリングが合う、とか、気持ちがふれあったと思える何かがあれば、それで恋ははじまる。
恋は、基本的に他者へのあこがれだから、理解できないことが恋心をたかぶらせたり、理解しすぎることが恋心にブレーキをかけたりすることも、しばしばある。
けれど、つきあいがしばらくつづくと、ふと自分自身はほんとうに相手のことをわかっているのだろうか、と立ち止まることがある。
相手を理解したい、という気持ちは、それが必要であるとか、相手への思いやりであるとかいうのではなくて、むしろあらたな欲求といっていい。
そして、そのことがことさらに意識されたのは、ふたりの関係に何がしかのかげりが見えたせいかも知れない。

梨の実には、桃の実とちがって大きな種があるわけではない。
刃を入れれば、小さな種子も芯の部分も、かすかな手ごたえとともに両断される。
3句目が、たしかめる、であって、考える、とか、思いおり、ではないところに、一首のせつなさはきわまる。
あまく澄んだ水のあふれる梨の果肉に刃をすべらせる、その感覚のなかに、主人公は「君」の存在を何度も反芻するのだ。

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