江戸 雪


我のみが知る記念日は数ありてそのたびひとりのさびしさに気付く

田中雅子『令月』(1997年)

記念日といえば、底抜けにあかるいこの歌をおもいだす。

この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日  俵 万智

いっぽうでこの歌の「我のみが知る記念日」とはなんという孤独。
かなわない恋だけれど、いつまでもあきらめられない。そんな時間や空間に、一人で、そのひととのわずかな関わりを大切にしている。だからこそ、「我のみが知る記念日」が刻まれていく。
初めて電話で話した日。要件のみのものであったとしても。
すれ違った廊下。言葉を交わすことがなくても。
いつもと少し違う声、さびしそうな横顔、そして笑顔。そんなことを思い出したりして、心が熱くなる。
それなのに、これらの「記念日」はふたりで共有することができない記念日だと、どこか冷静にわかっていて、一瞬の高揚はさびしさに転じてしまう。
にもかかわらず、「数ありて」に、それでもいいとおもっているような姿も想像できる。
そんな真摯な姿が愛おしい。

成就した恋と片恋。どちらも恋であることにかわりはないが、気持ちの交感がないぶん、なんとなく片恋の想いは閉鎖的であるような気がしてしまっていた。
けれど、こんなふうにそのひとに会って、そのひとを見て、知りながら、想いが変化していくこともあるのだ。そうしているうちに、そのひとの想いも変わるかもしれない。

けれどやはり、幸せを感じるはずの「記念日」が行き場を失い、痛みに変わってしまうかもしれない恐れもたしかにある。
希望と背中合わせの怖れが、片恋にはある。