要するに世界がこはい 夕立に気がついたなら僕に入れてよ

黒瀬珂瀾『空庭』(2009年)

 

舞台劇の台詞のような一行だ。場面はあるアパートの一室。年上の男にほしいままにされた主人公の少年が、アパートの部屋に帰ってくる。やがての外を見ると夕立が来ている。ああ、あの人が想われる。あの人に向かって心の中で、いやスポットライトの下、客席に向かって、少年は叫ぶのだ「要するに世界がこはい 夕立に気がついたなら僕に入れてよ」。

 

という情景がおのずと浮かぶのは、この歌の作りのせいでもあり、また私がはじめてこの歌に出会った場が、2002年7月6日に浜離宮の朝日ホールで開催された詩歌朗読イベント「marathon READING 2002」だったせいでもある。短歌に出会ってほどない当時の私は、文字としてではなく、自作を朗読する作者の声と姿と息づかいと、カセットデッキによるBGM(だったと思う)とが混然一体になったものとして、一首を享受した。

 

〈要するに/世界がこはい/ 夕立に/気がついたなら/僕に入れてよ〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。歌意は平明だ。要するに僕は世界がこわい、生きていくことがこわい。もしあなたが今降ってきたこの夕立に気がついたなら、僕のところへ来て、そして僕に入れてよ。求愛の歌である。「世界がこはい」という正調蒲魚風フレーズもさることながら、眼目は結句のフレーズだ。ぬけぬけと「僕に入れてよ」などといってみせる、作者の歌人魂を味わいたい。

 

歌集の中で、一首は「夏の雨 小さな朗読のために」という章に置かれる。朗読の会場で配られたテキストとは、構成がやや異なる。この歌を含むくだりを歌集から紹介しよう。

 

水槽のエアポンプのみ響く部屋(世界を見たか)光る金星

生命あるものは魚とぼくだけの世界にディスプレイの青さは

要するに世界がこはい 夕立に気がついたなら僕に入れてよ

死がこはい世界がこはい水のない海へと歩む僕の魂

空壜のひかりをつつむ夏の雨それはいいから僕を脱がせて

 

黒瀬の朗読に接し、短歌の世界にはいまどきこんな文学青年が生き残っているのかと私はおどろき、そして頼もしく思った。絶滅危惧種よ、絶滅するな、という印象だ。

 

第一印象は、やがて不変の印象となる。この人は生まれついての文学青年なのだった。たとえば黒瀬の少年時代を、春日井建はこう書く。〈三宅千代氏が主宰する子供たちの短歌誌「白い鳥」のメンバーに、不思議な作品を書く少年がいて、その作品以上に人物もまた異彩を放っているというのだ。「白い鳥」が解散となり、若い才能の幾人かが私たちの仲間となった。そしてその一人が黒瀬だった。大会ののち、三宅氏は私に、「お化粧をして参加しませんでしたか」と嬉しそうとも不安そうともとれる表情で訊ねた〉(2002年刊『黒耀宮』「序」) 

 

吾児がわが母にほのかに似てくるを九月の朝のさざなみとなす

黒瀬珂瀾「黒日傘」第二号(2013年)

「おかはり!」と大声音の寝言なす児を闇ぬちに見おろしてをり

あけてはやくあけてとピオーネ一粒を児に手渡され始まる今日よ

妻と児を待つ交差点 孕みえぬ男たること申し訳なし

 

最近の作者は、妻と子に取材する作品を精力的に書いている。永遠の文学青年は、これからどんな世界を開いてゆくのだろうか。

 

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