雨暗く/部屋の明かりが輝けり/甦りといふことを思へる

坂口 弘『常(とこ)しへの道』(2007年)

 

郷隼人はアメリカの獄中に終身服役囚であった。日本の獄中にも詩歌に、それこそ生命をつないでいる死刑判決を受けたものが存在する。俳句では、三菱重工場爆破事件や天皇暗殺を謀る「虹作戦」を企てた大道寺将司、そして短歌では連合赤軍あさま山荘事件の坂口弘が知られる。いずれも1970年代の新左翼運動の活動家である。彼らの心性には、イデオロギーは置いて日本的なものがある。

坂口は、まだ死刑判決が宣告される以前から熱心に朝日歌壇に投稿し、入選を重ねていた。その時代の作品が『坂口弘歌稿』(1993年)として刊行される。死刑判決後は、周囲との関係がほとんど断たれ、母親だけが坂口との窓口になる。その母親が佐佐木幸綱と連絡を取り、2007年『常しへの道』が出版された。

坂口は、連合赤軍幹部として自分がかかわった事件、山岳ベースでの総括と称する組織内のリンチ殺人、あさま山荘における銃撃戦について当事者として記録を残す(『あさま山荘事件1972年』)。その作業を終えて、短歌に集中していく。

『常しへの道』が、『坂口弘歌稿』と違うのは、一首の表記が三行になっている(/が改行を示す)ことだ。作品を分かりやすく、リズムを視覚化するためと理由を「あとがき」に語っているが、石川啄木に倣ってのことであり、それだけ短歌に深入りしたということであろう。

見しことなき豚草のごときがはびこれる/庭は春ながら/荒野のごとし

夏の宵/ほの白きものが物憂げに庭を歩めり/猫にやあらむ

寄り添へる家族のやうに/庭に咲く/一期一会の秋の蒲公英(たんぽぽ)

 

拘置所内の景色である。一首目結句「あらの」と読むのだろう。三首目「一期一会の秋の蒲公英」、いずれも死刑囚の目が捉えた感覚である。猫の存在も事実かどうか、死刑囚の見た幻かもしれない。つまり死に近き目の見た景色と思えばいいだろう。

掲出の一首は、雨が降る日の暗い房内、わずかな明かりが、ふっと甦りということを思わせた。これも死の意識の反映と読める。甦りは、やり直しの意味も含むのだろうか。前後にはリンチや総括の記憶を辿る歌が並んでいる。

 

森恒夫が剣道具着けて/夕暮れの/校舎の暗き廊下歩みくる

戯れに吾のふぐりをまさぐりし/剽軽(へうきん)ありき/牢の風呂湯に

鴉になり/鴉と声を交はしゐき/夕べの窓辺に病める男は

 

森恒夫(連合赤軍幹部)は回想だ。森は早く自死を遂げている。他はこれも獄中の歌だが、ゆとりが感じられる。短歌が、坂口の救いになっていることが伺われる。

坂口の歌は、いっぽうで死刑囚としての死の意識に隣接する緊張があるのだが、とくに「あとがき」などに感じられるある種の特別意識、驕りのようなものが勘に触れてくることがある。事件の被害者や関係する死者はどう思うだろうか。短歌の働きとともに色々なことを感じさせる。大道寺将司の俳句は、事件を見直しなお戦い続ける姿勢がつよく感じられるのだが、坂口の短歌はどうだろう。この歌集は、すでに七年前のものである。それ以後の歌を読んでみたい。