昼どきになればスパナも錆捻子も散らかせるまま飯くひにゆく

外塚喬『喬木』(1981)

 

栃木で生まれ、高校時代は雑誌に歌を投稿していた作者は、十九歳で上京、日本電信電話公社に入社した。『喬木』は作者の第一歌集で、特に仕事を詠んだ歌が中心となっている。詳しくはわからないが仕事は工具などを使う技術職であり「送受器(ブレスト)」「ハンダ鏝」や図面を引く歌などが多く出て来る。この「昼どきに」の歌は会社から昼食を食べに行く場面を読んでいて、散らかったままやっと休憩をできる様子が伝わってくる。片付けないのは忙しさもあるだろうし、戻ってきてすぐに仕事を再開できるようにしているということでもあるだろう。

 

シャガールの絵を虫ピンにとめておく朝より図面引く部屋の壁

あやまちて触れれば死ねるものばかり変圧器・整流器・高圧受電盤

づけづけと物言ふわれをさけてゐし男が捻子の切り方をきく

 

このような歌もある。一首目は殺伐とした仕事部屋や仕事の時間を少しでもなごやかにするために、シャガールの絵を飾っている作者がいる。また二首目では常に危険をともなう仕事だという事がわかる。「整流器」とは交流を直流に変更する装置で三つとも電圧に関する装置だ。少しでも油断すると命を落とすこととなり、緊張のなかで作者は作業している。

三首目は仕事場での人間関係がうまく詠われている。はっきりと物を言うような自分を日頃は避けているような男が、今日は捻子の切り方を聞いてくる。捻子を切るというのは、捻子を作り出す作業のようで技術のいる作業なのだろう。話したくない相手であっても、仕事を進めるには話さなくてはならない状況がよく伝わってくる。

 

汗染みて眠りゐる子よ父われは死ぬやうな辛さをまだ知らぬなり

死の意味をわれも知らねば子とならび鳩の骸を見守りてゐる

 

このような歌もある。外塚は若くして結婚し父となった。一首目は子に独白しているような歌。危険な仕事に毎日追われながらもまだそれは死ぬような辛さではないという。これから長く続く人生に対する覚悟のようでもある。二首目には、幼い子と同じように「死の意味」をまだ本当は深く知らない我、それをあらためて作者は意識している。

外塚はほとんど私の父と同じ世代である。日本の高度成長期やバブル期を、がむしゃらに働いていた父のことを考えながら、この歌集を私は読む。