月光の素足に触れてきみは地に繭は樹上に浮かべりわづか

森島章人『月光の揚力』(1999年)

梶井基次郎の「Kの昇天」という小説を高校生のころ何度も読んだ。
療養先で出会ったKのことを回想し、Kの友人へ手紙をしたためる形式で書かれた掌編である。
月の光でできた自分の影を見つめていると、影に生物の気配があらわれて、やがて自分の姿がそこに見えてくる。
それにつれて実体の自分は意識が遠くなり、月光を遡るようにスーっと天に昇ってゆく。
そう信じるKは、満月の夜の海岸で溺死してしまった。

街中に暮らしていると、月の光でできる影を見ることはすくない。
それで「Kの昇天」を読んだとき、夜中に家をぬけだして広い空き地に影を見にでかけた。
たしかに、青っぽくて繊細な独特の感じがあった。
月光が、平行光線であるとか、反射光、つまり偏光であるとか、そういうことと関係があるのかも知れないが、そんな物理的な特性に還元できそうにない、何か、があるような気がした。

一首を読んで、すぐに梶井の「Kの昇天」を思い出したのだが、この歌にえがかれた「きみ」は昇天することなく、わずかに浮かぶだけだ。
射しこんだ月の光を、素足というのはうつくしい表現で、その素足にふれた「きみ」もまた、青白くうつくしくその光のなかに浮かんでいる。
地に、といっているのは、この地上に生きている、という意味で、必ずしも野外の風景と読む必要はないだろう。

では、繭とはなにか。
「きみ」に対する「わたし」、つまり主人公自身の投影と、一旦読んでみた。
その読みが正鵠を得ているかどうかはわからない。
繭はやがて蛾になって夜空を飛ぶ存在である。
その繭が月光のちからで、ほんのすこしだけ浮かびあがっている。
うまく説明できないが、この繭はけして羽化することがないような気がするのだ。
月光の神秘的な力に感応しながら、地上に生きるほかない、人間の宿命が静謐に詠われている。

日曜日、10月4日は満月。中秋の名月である。

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