わたなかを照らせる月を見てをればわが現身のあかるむごとし

島田修二『渚の日日』(1983)

 

 「海の上を照らしている月を見ていると、自分のウツシミ、つまり生きて動いているこの自分という人間、が明るくなるようだ」と言っている。

 単純で明快だが、ここまできっちりと決めるのは簡単ではない。

 

 人間存在は闇であり、誰の心にも闇がある。もやもやどろどろとしているのが人間であり、生きている時間とはそういうものの集合である。

 しかし、月という巨きなものに真向うとき、自分も照らしてもらうに値する存在だと気づく。

 そのように、救われ、赦されるように感じる瞬間はいろいろな場面で起こるはずだ。科学的には自分の脳が必要に迫られて作りだす想像なのかもしれない。

 しかし、追い詰められた人間はそうした自分だけの神のような存在を創りだしてみづから許され、生き続けるのだろう。

 

 島田修二さんには、心の中の闇を一本の矢で射抜くような端正な歌がいくつもある。

・不可思議の星満つる空に目眩してたまゆらを心豊かにをりぬ

・空中をしばし落ちゆく夢に覚むおほどかにあれこののちの生(よ)は

・屈辱も疲労もやがてなじみゆくわがししむらの闇をうたがふ

など、うつむき加減に生きながら、ときにぐっと顔を上げて堂々と生きた昭和の人たちの姿が見えてくる歌だ。

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