きさらぎの雪にかをりて家族らは帰ることなき外出をせよ 

小中英之『わがからんどりえ』(1979年)

 

「きさらぎ」は陰暦二月の別称。漢字では「如月」「衣更着」「更衣」などと書く。声に出して「き・さ・ら・ぎ」とゆっくりいえばわかるが、イアアイと連なる母音の響きがうつくしい。陰暦の月の名称の中では、水無月(みなづき)と並んでよく短歌に登場する語だ。

いまいま書いていて気づいたが、「きさらぎ」と横書きに平仮名をかくと、まるでふくらんだスカートが四つ行儀よく並んでいるように見える。真ん中の二字「さら」のスカートの向きが、左右対称なのもおもしろい。きさらぎのふくらんだスカート。縦書きにしたときには出てこない視覚的な風味である。

 

手ごわい歌だ。「雪にかをりて」とはどんな状況か。「かをる」には「つややかに美しく見える」という意味がある。きさらぎの雪が降る中、その雪を浴びて姿うつくしく見えつつ、<わたし>の家族たちは帰ることのない外出をしろ、ほどの歌意だろうか。だが、帰ることのない外出とは何だろう。行方をくらまして家へは戻ってくるなというのか、死へ旅立てというのか、あるいはまったく別のことなのか。「帰ることなき外出をせよ」は出来たフレーズであり、一読して目にもこころの耳にも心地いいが、ことばの意味を考えだせば茫漠とする。

 

ところで、作者の師である安東次男は、この歌について次のように書く。

 

以下引用

<きさらぎの雪にかをりてうかららは帰ることなき山踏をせよ>と作り直したくなる。歌が現代のものだということは、「うから」「山踏」の内容は「家族」「外出」だと読取らせることにあって、この古めかしい言葉の外延を猶予想外のところまで拡げて見せることにある。「うから」だの「山踏」だのがただ古ぼけて見えるような連中は、歌(詩)など作る資格も読む資格もないのだと割切った方がよい。(歌集跋文「小中英之の歌」)

引用ここまで

 

割切るってすばらしい、と説得されかけるが、ここは議論百出になるところだろう。安東説とは反対に、「くりや」「写し絵」などといったものは現代には存在せず、あるのは「台所、キッチン」「写真」なのであって、ないものを短歌に持ちこむのはおかしいという説も当然ありうる。さまざまな考えがある中、一ついえるのは、どんなレベルの語を持ちこむかは一首全体のバランスの問題、ということだろう。その都度、その歌ごとに検討するしかない。

 

きさらぎの雪にかをりて家族らは帰ることなき外出をせよ  (原作)

きさらぎの雪にかをりてうかららは帰ることなき山踏をせよ (安東による改作)

 

この歌の場合はどうか。「帰ることなき山踏をせよ」は、原作フレーズにくらべていっそう目と耳に心地いい。だが、いっそう茫漠とするのもまた事実である。

 

小中英之は、2001年に64歳で死去した。辺見じゅんによれば「何かの用件で外出しようとして玄関先で倒れ、誰にも知られることなく息を引きとり、二日間そこに横たわっていたのだ」(小中英之歌集『過客』「追い書き」)という。

辺見じゅんもまた、2011年、小中に通じる息の引きとり方をした。表現者の理想的な死に方は、行き倒れ、野垂れ死にの類だと思う私にとって、誰にも知られずこの世にさよならするという点においてあこがれやまぬ死に方だ。

 

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