吉野 裕之


朝覚めし母に会へれども耳とほき人として未だこゑをかはさず

森岡貞香『九夜八日』(2010年)

 

『九夜八日』は、没後刊行された3冊の歌集のうちの一冊、最初に刊行されたそれである。

 

萎えたりし丸葉いち枚をとりはづしおく夜半のてーぶるのうへ

中庭の若葉の濃くなり母人の遺品を頒つこと考ふる

朝食の麺麭を取るときははそはの母いまししも過去となりたり

もとどほりになるまでのまをうつぶしてまた横向きてをりたりわれは

雨のをはり雪にあきらかに変るとき蔓薔薇の実が赤く切実

水桶に入れゐるわが手はうれんさうの青き葉むらの取囲みたる

数といふがここに見えゐて巻貝のからを積みたる夜の食のあと

なんといふつめたき朝(あした) 麺麭をちぎりほのぬくもりはふるき日のやう

ほんたうの牡丹のやうと人の言ふ低き日差の部屋に入りこし

花殻が地面に戦(そよ)ぐはいつまでか百日紅(ひやくじつこう)といふはいきさつ

 

森岡貞香の一冊は、読むのにとても時間がかかる。実際にはそれほどでもないのだが、そんな印象が強い。ゆったりとゆったりとした文体。その独特の文体が大きな理由だろう。

それは、一語一語をくっきりさせる。読者は、一語一語の意味を確認しながら、日ごろ漠然と受け取っているイメージの見直しを求められる。つまり、ことばに正しく向き合うことを求められるのだ。たとえば、「雨のをはり雪にあきらかに変るとき蔓薔薇の実が赤く切実」。結句に置かれた「切実」。この一語をどう受け止めるのか。読者は厳しく問われる。

内容を取りにくい作品もすくなくない。たとえば、「もとどほりになるまでのまをうつぶしてまた横向きてをりたりわれは」。何がもとどおりになるのだろう。「うつぶしてまた横向きてをりたりわれは」だから、横になって、うつぶしたり横向きになったりしながらもとどおりになるのを待っているのだが、自身のからだのことなのか、あるいは別のものなのか。なんとか内容を取りたいと思うのだが、なかなか難しい。

しかし、日常はそうあるのだ。日常はさまざまな行為から構成されている。それを見ていても、見えない、あるいは見ていない。聞いていても、聞こえない、あるいは聞いていない。他者のそれはもちろん、自身のそれであっても。日常とは、そうしたものの集合体。森岡は、日常というものの本質を正しく描いている。

ここには、肯定や否定といった概念とは関わりなく、さらにいえば、喜びや悲しみといった感情とも関わりなく、ことばと日常に真摯に向き合う精神だけがある。その謙虚なありようが、森岡貞香という作家を具体化している。

 

朝覚めし母に会へれども耳とほき人として未だこゑをかはさず

 

母からも、私からも声をかけない。お互いに声をかけないからこそ、形づくられる時間と空間がある。それを大切にしているのだと思う。耳が遠いことは、聴覚の機能が劣っていること。しかし、「耳とほき人として」という響きは、なんだか聖なる力をもった人のようだ。母に対する敬意という言い方は、適切ではないだろう。こうしたこととは別の水準で、ふたりの関係はある。「こゑをかはさず」。お互いに自立した主体として、時間と空間を共有するふたり。だから「かはす」という語が選ばれている。そしてそれは、「ことば」ではなくて「こゑ」。

5・8・5・8・7という音数は、母を包むような、ふっくらとしたふたつの8音が効果的だ。

 

(引用作品は旧字体が用いられているが、ここでは新字体としている。)