一ノ関忠人


おぼろなる月もほのかに雲かすみ晴れてゆくへの西の山のは

武田勝頼(16世紀後半)

 

戦国時代の武将、武田勝頼(1546~1582年)の辞世と伝わる一首である。

勝頼は、戦国最強軍団の将、武田信玄と信州諏訪の領主諏訪頼重の娘との間に生まれた。信玄の陣没(1573年)により家督を継ぐ。信玄の死を知った織田信長、徳川家康の攻撃がはじまる。勝頼率いる武田軍は、それに対抗。家康の属城高天神(たかてんじん)城を落とし、美濃の信長の諸城を攻略、しかし三河長篠に信長・家康連合軍と戦い、信長軍の3千挺の鉄砲隊の前に大敗(1575年)、以後衰勢に向かう。そして1582年、織田軍に攻められ韮崎の新府城を出て、柏尾の大善寺を経て天目山麓に自害する。

武田家を滅ぼした武将として評判よろしくないが、決して劣っていたわけではない。文武に優れていたが、乱世の宿命か、信頼していた家臣がつぎつぎに織田に降ることで、一族壊滅に到る。

しかし、この武田勝頼が私は好きだ。勝ち続ける戦国武将にも魅力はあるが、滅びへ向かう最後を持つ勝頼を、好ましく思っていた。

その勝頼の最後を記録した「理慶尼の記」という文書が伝わっている。「武田勝頼滅亡記」とも言われる。同様の記録に「甲乱記」がある。「甲乱記」は、武田家の臣高坂弾正昌信の家中である春日摠次郎という武士の著した記録であるのに対して、「理慶尼の記」は、勝頼に近い女性の手になるものだ。実のところ偽書であるらしいのだが、これがなかなか美しい文書である。

理慶尼は、武田家の一族勝沼氏の女性である。父が謀叛の疑いで討たれたため、婚家を離縁、落飾して生涯を柏尾山大善寺に暮らしたという。大善寺には、理慶尼の墓と伝える五輪塔がある。この五輪塔が、稜角をなだらかに磨いた、細身の石塔で、やさしい女性の姿に見えて美しい。「理慶尼の記」も、二本あるうちの一本が、この大善寺に伝わり、また理慶尼が勝頼の戦勝を祈る願文も、ここで書かれたようだが、これもまた偽書であるらしい。

現在、甲府の武田神社の宝物館に、この願文は展示され、その複製が頒布されている。そこに記された文字の美しさ、やさしさは文言の切なる祈りとともに比類がない。偽書とは言いながら、なかなかのものだと思う。「理慶尼の記」も、同様によくできた物語で保田與重郎はこの書の訳文を作り、解説を加えている(『保田與重郎全集』第23巻所収)。

保田は、この物語を「すべてやさしい心遣ひから、故人に対する追善を記録し、心一つにをさめきれぬやうな悲しみを叙してゐる」と評する。保田のこの文章は、戦中のものであるようだが、これがまたなかなかやさしく美しい。偽書を疑いながらも、室町時代末期の女性の地方文学として、それなりに遇している。

勝頼の辞世も、この保田の訳文に教えられた。

辞世に詠む「西の山のは」は、西方浄土を指すのだろうが、勝頼が拠点にしていた韮崎の新府館が、天目山からは西の方向にあたっていることに注目しておきたい。西へ未練を残しながらもどこか晴々とした辞世に思える。

勝頼の自刃に前後して、北の方の死。北の方は、小田原北条氏ゆかりの女性であった。この女性の歌として、別の本に次の歌が伝わっていることを保田は書き記す。

 

黒髪の乱れたる世ぞはてしなき思ひに消ゆる露の玉の緒

 

さらに物語の哀れは、勝頼の子息信勝の死を語る箇所だ。勝頼が、「そなたのことこそ全く無慙でならないと思ふのは、齢わかいばかりに、つひに武田の主ともなられず、はてはこんな始末となつて、未だかたく蕾んだ花のまゝ、世の春にさへ逢はないで、嵐にもまれて落ちる如きものだから、それが何とも無念でならない」というと、信勝は莞爾と笑みて「もののいのちに時の遅速はあれど、いづれあくまで世にのこるものとてあるわけでは」ないと語り、歌を詠む。

 

まだき散る花とをしむなおそくとも遂に嵐の春のゆふぐれ

 

そして信勝は辞世として、

 

あだに見よたれも嵐のさくら花咲き散るほどは春の夜のゆめ

 

この一首を残し、16歳の命を断たれる。その様子を、自ら手にかけた側近は、「薄化粧をされた眉の形、色々の装束のあでやかさ」が何時もより美しく見えたと言い、「それはまことに楊梅桃李が一時に花開いたさまとも思はれ、霧の間に弓張月の入る風情にも劣」らない、「此の世の人とはどうしても見えない」、「天人の影向」のようだったと語ったという。

これが勝頼一族の死の場面であったという。ただ、どこで聞いたか、あるいは読んだか、出典の記憶がないし、ずっと注意して探しているのだが、勝頼の死には別の伝承があって、山の毒、具体的には野草の毒に酔って崖から身を投げたという説があるらしい。私は、その伝承が気になって長く注意しているのだが、いまだ典拠を見いだせずにいる。どなたかその伝承の真偽を知らないだろうか。