自らの力出す如く焼かれゆくフライパンの中の一片の肉

黒田淑子『丘の外燈』(1963)

 

不思議な読後感を残す歌である。ステーキのような肉をじっくり焼いている場面だと思う。生だった肉がだんだん締まって色が変わり焼かれていくところを「自らの力出す如く」と見ている。一枚の肉は最後の力を出すように、熱いフライパンのなかで変化している。食べ物でありながらもとは生き物であることをふと思い出させる。

 

ぬめりある花瓶の中を洗ひつつ人思ふ心遠くなりゆく

 

こんな場面も日常ではよくあるが、歌に詠まれているのは稀だ。花を挿していた花瓶は水が濁ると内側がぬめっている。それを丁寧に洗いながらだんだんと人を想っていた気持ちが遠ざかっていった。「ぬめりある花瓶の中」、それはとても恋心とは対照的な、ひどく現実的な場面だ。気持ちがふいに変わって行く様子がよくわかる。

 

応へなき愛を持ちをり富士山を小さくかきし北斎思ふ

 

「応へなき愛」は自分からだけの一方通行の愛だ。その哀しみや寂しさに作者は耐えようとしている。そこからいきなり三句目へ歌が展開する所が面白い。ここで詠まれている絵は北斎の「神奈川沖浪裏」のような、遠景に富士山を描いたものだろう。大きなはずの富士山を小さく描き手前の波が力強く描かれてある有名な絵だ。この富士山の小ささに、作者は愛やその相手の存在の遠さのようなものを重ねているのだろうか。あこがれているけれど遠いもの、離れてそっと見ていたいもの。そんな風に見ている自分を、あらためて思っているのだろうか。

 

みづからに燃えむとしては消されたるマッチの軸は厨に溜る

 

こういう歌もなるほどと思う。何かに点火する目的でマッチをつけるのでいつも途中でその火は消される。自ら、燃えようとしてはすぐに消されていくマッチ。その軸が溜っている厨。まるでそれは積まれたマッチの骸のようである。

 

作者は昭和4年、岐阜生まれ。この歌集は第一歌集である。27歳で「歩道」に入会し、タイトル『丘の外燈』は佐藤佐太郎によりつけられた。