花山 周子


大森静佳/かわるがわる松ぼっくりを蹴りながらきみとこの世を横切ってゆく

大森静佳『カミーユ』(2018年・書肆侃侃房)


 

ところで、大森静佳の歌にはときおり変なものもあって、不思議な読後感を齎す。

 

しろじろと毛深き犬が十字路を這うまたの世の日暮れのごとく

 

またの世」みたいな時間の幅の取り方は大森のモチーフでもあるのだけれど、それにしても、この歌はそういう意味での「またの世」の生かし方がなくて、この「またの世」の質感をとても面白く思う。

 

毛深い犬というのはもさもさして毛が長い犬なのかな。白くて毛の長い犬というとなんだかちょっと汚れていそうな気もするけど、ここでは、「しろじろと毛深き」という形容の仕方が不思議な目立ち方をしていて、この犬を現実離れさせるような気がする。この十字路には他に人間も含め生き物がいなさそうで、そして私が二度見してしまったのは「這う」である。それも、「這う/またの世を」と一旦、終止形で切断されたことで、その姿態が「またの世」にもぞもぞと移動していく。「日暮れのごとく」が犬の形容のようにも見えてきて、薄暗い時間の十字路と空の隙間にこの犬が押し挟まれてもぞもぞと這っている異様な光景が「またの世」にそのまま接続されてしまうのだ。

 

かわるがわる松ぼっくりを蹴りながらきみとこの世を横切ってゆく

 

この歌の「この世」もまた似たような面白さがあるのはやはり、「松ぼっくりを蹴りながら」の印象によるのだろう。松林や公園で松ぼっくりを蹴りながら歩く、そういう他愛ない行為と「この世」との接続が、歌の中に隙間だらけの空間を作る。

 

かわるがわる松ぼっくりを蹴る一定の途切れ途切れのリズム、蹴られた松ぼっくりが転がってゆく無軌道な方向性。それは、石とかではだめで、松ぼっくりといういびつな形、軽さがここに妙に具体的な蹴る感触を、無軌道な方向性を感じさせる。その微妙にどこに飛ぶかわからなさが、「この世」という観念的空間とは相いれない空間を広げてしまっているのだ。

 

そしてここに二人が進んでいくのとは別のアングルから「この世を横切ってゆく」という視界が差し挟まれる。「この世」という大きな道路が突然引かれ、松ぼっくりを蹴る二人の姿が遠景化し、その遠景化した二人の進路が「横切ってゆく」というふうに何層にも違うアングルが差し込まれてゆくのだ。その層と層との間には真空の隙間が生まれてゆくのである。

 

レシートに冬の日付は記されて左から陽の射していた道 『てのひらを燃やす

 

レシートの日付を見て思い出された道があったのだろう。そういう静かな抒情性が一読してすっと入ってくる歌である。けれども私は以前からそれとは別のこの歌が引き出してくる感覚にも惹かれている。

 

レシートの白い長方形には横書きの数字や日付がある。そういう線的に区切られた視界の中に「左から」というふうにして光が射し込む。そして最後にすっと道が引かれるのだ。

 

松ぼっくりの歌と同じように、この歌でも斜めから幾層もの面が重ねられてゆくような画面のスライドがあって、歌に描かれている場面と場面に隙間が生まれている。

 

こうした歌を見ていると大森の歌の「この世」みたいな時間軸は、何か、幾何学的というのか、そこでは〈わたし〉というものまでがまるで写真が裁断されていくようにして、重ねられ、その重なりのなかで遠景化してゆく。それが鏡面作用のように見えてくるのである。
これは前回書いた、自在なレトリックによって歌に身体性を獲得することでモチーフに肉薄しながら、一方で硬質な観念性がその流動性を裁断するのとも通じる特徴で、私はこれを新しいコラージュのようにも思うのである。コラージュというのはそもそもが全く別種のイメージのものを一つの画面に統制していくもので、けれども、大森の歌では重ねられるイメージとイメージの間に隙間が広がっているのだ。この隙間は歌の姿としても珍しいものである。