生沼 義朗


細川謙三/敗戦の頃の日本を語るのみ老いし感傷を避け来て坐る

細川謙三『楡の下道』(短歌新聞社・1975年)


 

前回の神山卓也は保険業界に勤務していた。いわゆる金融筋に勤務する歌人はそれほど多くはないが、何人か存在する。掲出歌の作者細川謙三は都市銀行の役員まで務めた銀行員であり、「未来」の創刊メンバーで選者も務めた歌人である。

 

細川は1924(大正13)年広島県生まれ、2008(平成20)年歿。『楡の下道』は、旧制第六高等学校(現岡山大学)在学中の1942(昭和17)年に「アララギ」に入会した細川が、51歳で上梓した第1歌集だ。なお、銀行員としての業務が多忙になったこともあり、1956(昭和31)年から1964(昭和39)年まで作歌を中断している。復帰のきっかけは5年弱におよぶ海外駐在だった。『楡の下道』には復帰後の1965(昭和40)年から1975(昭和50)年初頭までの、年齢で言えば40歳から50歳までの作品493首が収められており、細川はこの歌集で第20回現代歌人協会賞を受賞している。

 

 

東京は幻なして迫り来る五年ののち帰り行くべく
白き受話器机の上に在ることも常のごとくに今日は去り行く
あこがれて還り来しかどともに迷う日本は恰も異邦のごとく
任(まけ)のまま北のさびしき街に来つ狭きホテルの部屋に起き臥す
北国の夕映えながく照らしいし馬酔木の木立暗くなり行く
アラスカの資料読み行く幾日に幾たびも空想は覆えされつ

 

 

これらの歌が詠まれたおよそ10年間に、細川はニューヨーク勤務、東京勤務、支店長としてのシアトル勤務を経ている。それに沿って歌集も「ニューヨークにて(一九六五―六六)」「東京にて(一九六六―七一)」「シアトルにて(一九七一―七四)」の3部で構成されている。

 

歌集を読んで気がつくのは、全体に海外を題材にした嘱目詠が多いことだ。とはいえ生活に根ざした視点や抒情から詠われており、いわゆる旅行詠としての切り口ではないが、海外生活に逐一心が新鮮に動いていて、生活を楽しんでいることがよくわかる。その意味で、生活詠と羇旅歌の間を縫うように詠まれる特徴がある。今と違って海外駐在はもちろん旅行で海外に行くことも高嶺の花であり、海外に出かける人には餞別を送る習慣があった時代だったこととも無縁ではない。

 

掲出歌は、第3章「シアトルにて(一九七一―七四)」の「或るパーティ」一連3首の最終首で、

 

 

兵たりし日を語りつつ寄り来たる白人達の今宵うとまし
髪長く眼鏡貧しき老白人「やまとごころ」を酔いて讃うる

 

 

の2首に続く歌である。どのような性質のパーティかは一連からははっきりとはしないが、感じている居心地の悪さは伝わってくる。1首目の「白人達」は、第2次世界大戦に兵士として従軍したのであれば、作者よりも間違いなく上の世代だ。掲出歌で「敗戦の頃の日本を語るのみ」と描かれる人物は前の2首から鑑みるに白人で、敗戦時の日本を知っているのだから進駐軍の兵士だったと読むのが妥当だろう。おそらく一方的に話しかけられ、しかも話の内容は戦勝国側の視点によるものだった。だから広いパーティ会場のどこかへ「避け来て坐る」のである。

 

「老いし感傷」の断定は手厳しいが、「もはや戦後ではない」と言われて久しい、高度経済成長最終期の第一線のビジネスマンの矜持の現れである。「語るのみ」や「避け来て坐る」などの表現には勝ち驕る者への嫌悪感や敗戦国の屈辱もなくはないが、むしろ自分は敗戦処理にアメリカに来ているわけではなく、あたらしい時代のビジネスを担うために来ているのだという責任感が滲んでいる。

 

もうひとつの特徴として、国際ビジネスマンの歌でありながら『楡の下道』には仕事を直接詠んだ歌がほとんどないことが挙げられる。仕事に関連する歌は見られるものの銀行員の業務を読んだ歌は見られず、海外の環境に身を置く〈われ〉が見た景色や人物、そこから発する抒情に表現の力点が置かれている。抒情は歌によって家庭人のものや職業人のものを往還する。職業詠ではよく見られることだが、どんな業種職種でも一歩間違えば守秘義務に引っかかりかねないから具体的な業務内容は仔細には詠えない。当時でさえそうなのだから、コンプライアンスへの意識が高い今ではもっと難しい。細川は仕事の具体を詠まず、背景の景色や人物を詠むことで抒情を立ち上げ、ひとりの海外駐在国際ビジネスマン像を描いている。

 

『楡の下道』の歌は静謐で落ち着いた表現だが、時代の好景気と敗戦の記憶が入り交じった独特の空気を纏っている。この時期の歌だからこそでもあって、今の仕事の歌は良くも悪くもこうしたテンションではまず詠えない。あらためて、表現はその時期を生きる人間の姿と抒情を映し出すものであり、時代の空気を纏うものだと気づかされる。